幕末の京洛で凶剣をふるった四人の人斬りは、どんな最期を迎えたか

剣客

尊王攘夷の嵐が吹き荒れた幕末の京都で、人々から「人斬り」と恐れられた暗殺者たちがいた。その中でも特に有名なのが、「幕末の四大刺客」と呼ばれた田中新兵衛、岡田以蔵、河上彦斎、中村半次郎の四人である。彼らがどんな晩年を迎えたのかは、あまり知られていない。開国派の兵学者・思想家としても名高い佐久間象山を暗殺した河上彦斎を中心に据え、三人の人斬りたちのその後を追った。

右手一本で逆袈裟斬り

この四人に共通するのは、人を斬る剣の技量が抜群であったという以外に、いずれも幼少期、身分が低く極貧のなかで育ったということだ。最も得意とする剣の腕前によって貧困のくびきを脱し、自分を蔑んだ者どもを見返してやりたいという、その一念で殺人剣をふるったのだった。

おそらく彼らの行動原理は、神州日本の国土を夷狄(外国人)の足で汚されてなるものかという単純な国粋主義に基づくものであって、そこには理路整然とした政治理念や信条と呼べるものは持ち合わせていなかったはずだ。いわば思想なき暗殺者たちであった。

四人のなかで、最も有名なのが薩摩(鹿児島県)の中村半次郎であろう。「人斬り半次郎」の異名をとり、自分を引き立ててくれた西郷隆盛とは常に行動を共にした。明治維新を迎えると名を桐野利秋と変え陸軍少将にまで出世するが、西郷が征韓論で敗れると西郷に随って薩摩に帰国。その後、西南戦争で西郷と共に戦死した。

桐野利明

河上彦斎は、肥後(熊本県)藩でも最下級の小森家で誕生したが、幼くして同藩の河上源兵衛という者の養子となる。嘉永二年(一八四九年)、十六歳のときにお掃除坊主として召し出され、藩主細川邸の掃除を担当する。

二十歳の春、藩主の供をして江戸に出る。着いて間もなく、ペリーの黒船騒動があり、彦斎は沿岸警備を命じられた藩主に随行して横浜へ赴く。海上に浮かぶ黒光りする船体を前にし、彦斎は海岸に集まった人々同様、ただ茫然と眺めていたに違いない。

この事件に大いに触発された彦斎は、帰国するや、国粋主義者であった国学者・林桜園の門に入る。さらに、轟木武兵衛に儒学を、宮部鼎蔵に兵学を学んだ。このあたり、同じ人斬りでも、無学なほかの三刺客とは一線を画していた。彦斎は漢文をすらすら読んだり書いたりもできたという。

それはともかく、こうして彦斎はひとかどの尊攘派として藩内でも認められるようになっていった。安政五年(一八五八年)三月、二十五歳になった彦斎は二度目の出府を果たす。このころ幕府は列強との条約問題や将軍継嗣問題などで大揺れしている時期で、参勤交代の期限が迫ってきても藩主の帰国はのびのびになった。彦斎は二年半も江戸に滞在することになり、その間、必死に剣術を修業したという。

彦斎は小柄で色白、一見すると女性のようだったが(男色癖があったとも)、我流で不思議な剣を身につけていた。道場では初心者同然の未熟な者にも、よく竹刀でポンポンと打たれたが、いざ真剣を抜くと全身から異様な凄みを放射し、どんな腕達者な相手でも一瞬たじろがせた。その隙をとらえて、地を這うような低い姿勢から相手の胴を右手一本で逆袈裟斬りになぎ払うのが彼の得意業だった。まさに、一撃必殺の魔剣であった。

師匠の仇討ちで新選組を狙う文久二年(一八六二年)十月、肥後藩は朝廷の要請で禁裏守衛を受け持つこととなり、彦斎も選ばれて上京した。京都にやって来ると、開国派を狙った「天誅」が横行し、田中新兵衛や岡田以蔵らが連日のように凶刃をふるっていた。

彼ら暗殺者たちは、よく確かめもせず、「あいつは開国派だ」「誰それは幕府の密偵だ」という噂だけでも平気で相手を斬殺した。一人でも多く開国派をあの世へ送ることが日本のためになり自分の名声を高めることにもなると信じて疑わない単純で危険極まりない暗殺者たちだった。

翌文久三年八月十八日の政変「七卿落ち」では、京都を追放された七人の公卿と共に彦斎はいったん長州へ逃れる。しかし、元治元年(一八六四年)六月五日の池田屋事件で師匠宮部鼎蔵が新選組によって殺されたことを知ると、彦斎はその仇討ちを胸に誓う。

こうして再び上京した彦斎は、復讐の機会をうかがって新選組隊士をつけ狙うが、そのうち佐久間象山の存在を知ることとなる。象山はこのとき、一橋慶喜(のちの江戸幕府最後の将軍)に公武合体論と開国論を説くために上洛していたのだった。

尊攘派にとって象山は開国派の頭目のような存在だ。彦斎は、天が与えてくれた千載一遇の好機に感謝し、象山ほどの大立者を討てるのは自分しかいないと思い込んだのであろう、新選組を追い回すのをいったんやめ、象山をつけ狙い始める。

そして、池田屋事件から一カ月ほど過ぎた七月十一日夕刻、象山が三条木屋町にあった仮寓先に騎馬で戻るところを仲間数人と急襲し、殺害する。とどめの剣は彦斎がふるった。落馬した象山が、立ち上がろうとしたところを、彦斎得意の逆袈裟斬りによって腹を裂かれ、二の太刀で顔を斬られて絶命したという。

この日までに彦斎は一体何人の開国派を手にかけてきたのか判然としない。記録にあるのが、この象山の暗殺だけだからだ。しかしこのとき、「最初に人を斬ったときにも感じなかった髪の毛が逆立つような恐怖」を覚え、以後、暗殺に手を染めることはけっしてなかったという。

おそらく彦斎は、象山が持つ底知れぬ人間力に圧倒され、人を殺すことの恐ろしさにはじめて気づかされたのではないだろうか。

諸国をめぐり勤王を説く

大政奉還から鳥羽・伏見の戦いを経ると、幕府は一転、朝敵となった。そうなると肥後藩では手のひらを返すように勤王(天皇に忠義を尽くそうとする思想)派を藩の役人に取り立てるなどして優遇するようになる。彦斎にも諸国の藩をめぐって朝廷に靡なびかせるよう説得させる役目を担わせている。肥後藩としては時流に乗り遅れないよう少しでも朝廷に〝いい顔〟を見せておきたかったのだろう。

その後、遊説の旅から京都に戻ってみると、朝廷は攘夷から開国へと舵を切り、その方針転換に添うように明治新政府はいままさに文明開化路線の端緒を開こうとしていた。愕然とする彦斎。彼にとって神州日本はあくまで尊王攘夷でなければならなかった。

そこで彦斎は、三条実美や木戸孝允ら新政府の要人を訪ねては、政府の変節をなじり、翻意を迫った。なにしろ相手はほんの数年前まで人斬りと恐れられた危険人物だけに気味悪がり、そのうち誰も会ってくれなくなった。

やがて彦斎は失意のうちに熊本に帰国する。故郷熊本で彦斎は、すぐに同志と語らって新政府に反省を求める運動を起こそうとする。そんな矢先、彦斎は「政府を転覆させる陰謀を企てた」という罪状で突然捕縛され、身柄を東京へと送られる。東京では大した尋問を受けることもなく、すぐに斬首された。明治四年(一八七一年)十二月四日のことである。

この彦斎に下された処罰の裏には木戸孝允の指示があったという。御一新を迎えてなお攘夷攘夷と騒ぐ頑迷固陋な彦斎のような輩は、木戸ら政府の要人にとってもはや目障りで危険きわまりない存在でしかなかったのである。

こうして生涯変節を嫌い、時代の流れを見ようともしなかった人斬り彦斎は、三十八年の生涯を閉じた。

田中新兵衛と岡田以蔵のその後

田中新兵衛と岡田以蔵の最期について触れておきたい。薩摩の田中新兵衛は船頭上がりだ。彼の名が人斬りとしていちやく名をはせるようになったのは、大老井伊直弼の走狗となって尊攘派の志士たちを大勢摘発した島田左近を殺害してからである。

その後新兵衛は、尊敬する土佐勤王党の武市半平太(瑞山)に命じられるがままに、何人もの志士や奉行所の役人などを手にかけた。ところが、姉小路公知暗殺の嫌疑により捕縛され、京都町奉行所で取り調べを受けているさなかに、一言の弁明をすることもなく、脇差で自らの首を刎ねて亡くなった。文久三年(一八六三年)五月二十六日、三十二歳だった。この姉小路卿の暗殺に関しては、新兵衛が本当に実行犯だったかは疑わしいという。

岡田以蔵も、同郷の武市半平太に命じられて数多の志士を殺害した。土佐藩主山内豊範に随って江戸に行ったこともあり、このとき坂本竜馬から依頼され、当時幕府の軍艦奉行であった勝海舟の護衛役を務めてもいる。

海舟は言うまでもなく開国派だ。そんな海舟のボディガードを引き受けるくらいだから、以蔵の政治信条もかなりあやしいものがあると言わざるを得ない。海舟は、以蔵が人斬りを楽しむ性癖の持ち主であることをすぐに看破し、即刻やめるよう忠告したという。

文久三年八月の公武合体派の政変で、尊攘派が京都を追われると、以蔵は拠り所を失ってしまう。その後の行動ははっきりしないが、衣食にも困窮し、商家に強盗に押し入ったところを幕吏に捕縛され、土佐無宿鉄蔵の名で京都町奉行所の獄につながれていたこともあったらしい。

その後、以蔵は放免されるが、すぐに今度は土佐藩の役人に捕まり、土佐へ護送される。以蔵は国許で牢に入れられ、一年間にわたって苛酷な拷問を受け続けた。最初こそ、なんとかそれに耐えたが、やがて辛抱たまらず、恥も外聞もなく泣き叫ぶ日々が続いたという。

そのうち以蔵は、京都での犯行を洗いざらい自白。そのほとんどが武市半平太の命令によるもので、殺害したのは誰で、そのとき仲間に加わっていたのは誰と、すっかり供述した。これにより土佐勤王党は壊滅に追い込まれてしまった。

慶応元年(一八六五年) 閏五月十一日、以蔵は斬首され、首は河原に晒された。享年二十八。同日、以蔵が師父とも慕った武市半平太が切腹して果てている。

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。

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