西郷隆盛と巡る「江戸無血開城への旅」~①箱根から駿府城へ【旅する日本史】

西郷隆盛

歴史は人々の営みによりつくられ、人々の営みは人々の足跡によりつくられる。一つの史実に沿って、歴史上の人物が歩んだ足跡を巡る旅のプランを提案する『旅する日本史』の第二回目。史実の英雄になったつもりで、あるいは参謀役になったつもりで時系列に沿って史跡を辿ることで、あたかも自分が歴史の目撃者になったかのような旅を体験できます。今回は、鳥羽・伏見の戦いで敗れた15代将軍・徳川慶喜を追う西郷隆盛率いる新政府軍と、江戸の街と徳川慶喜を守ろうとする旧幕府側のせめぎ合いを追った「江戸無血開城の旅」の前半。それでは今から、歴史上の人物とともにタイムスリップに出かけましょう!
「江戸城無血開城」までの流れ

1867(慶長3)年12月9日

王政復古の大号令を出すことで幕府の廃止を宣言した朝廷は、同日深夜の小御所会議で、徳川慶喜に対して内大臣の辞職と幕府領地の返納を求める辞官納地を決定した。これは事実上の徳川慶喜への引退勧告。

これに対して慶喜は大坂城に移り、翌年(慶応4年)の元日、薩摩を討つこと宣言する「討薩の表」を出し、翌1月2日より1万5千の兵を京に向けて進軍させる。

「あくまで自らの敵は薩摩」と表明することで、朝廷側と手を組んで新政府での慶喜の地位を確保しようとする狙いがあった。これにより、徳川慶喜と薩摩藩で武力討伐の中心となっていた西郷隆盛の対立という構図が明確になる。

1月3日

京に向かった旧幕府軍は鳥羽街道を封鎖する薩摩藩と衝突。この鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争の幕が開けた。

この時、新政府軍は岩倉具視や薩摩藩の大久保利通らによって用意された「錦の御旗」を掲げることで、自らが天皇の軍であることを主張。さらに徳川慶喜を賊軍として撃てという命令を明治天皇に出させることで、戦況は旧幕府軍に著しく不利となった。

旗色が悪くなった徳川慶喜は密かに大坂城を脱出し、幕府軍艦の開陽丸で江戸に退却。これにより、鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わる。

江戸に戻った徳川慶喜は朝廷との関係修復を画策。14代家茂の夫人で孝明天皇の妹であった和宮に、徳川慶喜を赦免する嘆願書を書くよう依頼する。さらに慶喜は、朝廷に逆らわないという意思表示のために、江戸城を出て上野の寛永寺に移り謹慎を始める。

しかし西郷隆盛は慶喜のこれらの行為を一蹴。あくまで徳川慶喜を倒し、切腹に追い込もうというのが西郷隆盛の腹積もりだった。

2月14日

東征大総督府の事実上の参謀役に任じられた西郷隆盛は、一刻も早く徳川慶喜を討つべく、なんと独断で京都を出発。西郷に連なるのは、薩摩軍一番小隊隊長中村半次郎(桐野利秋)、二番小隊隊長村田新八、三番小隊隊長篠原国幹ら精鋭たち。いずれも10年後の西南戦争で西郷隆盛と共に命を散らした志士たちだった。

2月28日

西郷隆盛は彼らとともに東海道の要衝である箱根に着き、箱根の地を占領、慶喜追討に向けて着々と準備を進めていく。

当時を忠実に再現した箱根関所跡

というわけで、箱根の地から旅を始めましょう。

最初に訪れるのは箱根の関所。箱根を占領するというのは東海道を押さえるのと同じことです。私たちの子どものころ、箱根の関所は箱根関所跡地と呼ばれていましたが、2007年にこの箱根関所が箱根町によって完全復元されたのです。

この完全復元はそう簡単ではありませんでした。関所の構造は江戸幕府にとっての最高機密。情報が漏れれば関所破りをはじめ、どのようなことが起こるか知れたものではありません。そのため、取り壊された後にその詳細を知ることは不可能と考えられていたからです。

しかし1983(昭和58)年、静岡県韮山町の世界遺産にも登録されている反射炉で有名な江川太郎左衛門の江川文庫から『相州御関所御修復出来形帳』というものが発見され、関所の構造が明らかになったことによって実現されたわけです。

このように、歴史というのは忘れ去られるものではなく、日々新たな発見が行われ、ベールに閉ざされていた歴史が徐々に明らかになっていくこともあります。そんなこともあるから、私たちはいつまでたっても歴史から目を離せません。

関所の復元に際して、箱根町はなるべく当時を再現するために、周辺の電柱を地中に埋めるなどさまざまな努力をしています。最近できたものではありますが、当時の様子がしっかり再現されており、もっともっとクローズアップされてもいい名所です。

復元された箱根関所跡

もう一つ、箱根で西郷隆盛ゆかりの地といえば芦之湯にある松坂屋本店でしょう。 箱根関所跡からバスで10分、芦之湯バス停で降りてそこから200メートルほど歩けば、江戸時代の本陣のたたずまいを残す松坂屋本店が見えます。

ここは明治2年に参議の職を辞した木戸孝允が西郷隆盛と会見を行った場所。庭にはそれを示す石碑もあります。

こちらの創業は1662(寛文2)年なので、西郷隆盛が訪れた時点ですでに創業200年という歴史の荘厳さを感じさせる場所です。

この宿は木戸孝允や西郷隆盛、勝海舟、山岡鉄舟、伊藤博文など幕末のスーパースターたちともゆかりがあり、副島種臣の書が掛けられた部屋(洗心亭)もあるので、ぜひともここで歴史に浸ってみてはいかがでしょうか。

東征大総督を出迎える

西郷隆盛は箱根から三島に移り、この地を本陣としてから静岡に引き返す。そのころ、東征軍のトップである有栖川宮熾仁親王が西郷隆盛に続く形で東へと歩を進めていた。

3月6日

西郷隆盛は東海道の鞠子宿(現在の静岡市駿河区にあった宿場)で、東征大総督の有栖川宮熾仁親王を迎える。家康ゆかりの駿府城で、徳川慶喜討伐の準備を着々と進めていく―。

江戸時代から残る「とろろ汁」の名店

それでは私たちも西郷隆盛とともに三島へ有栖川宮熾仁親王を迎えに行くといたしましょう。

三島までのルートですが、ここは鉄道ではなくバスを使うのをおすすめします。箱根関所跡からは、三島行きのバスが日中は1時間1便出ております。

このバスルートは旧東海道の箱根から三島へのルートをほぼなぞる形となるため、まさしく西郷隆盛が歩いたルートをたどることができるわけです。

バスではほぼ1時間の道のりですが、実は徒歩でも3時間半ほどで箱根関所から三島まで到達できるのです。途中には三島スカイウォークという歩行者専用の吊り橋もありますし、ウォーキングに自信がある方は「せごどん」になったつもりで歩いてみてはいかがでしょうか。

天空を歩いているような気になれる「三島スカイウォーク」

三島駅から静岡駅までは東海道新幹線で一駅22分。東海道本線でも約1時間の距離です。ただし、徒歩でこのルートをたどると丸1日かかります。昔の人がいかに健脚であったかということを思い知らされます。

本来ならここで西郷隆盛は駿府城に向かうのですが、駿府城には後で行くので、ここは東征大総督の有栖川宮熾仁親王を迎えに、一つ先の宿場である鞠子宿に向かいましょう。

静岡駅にもいい駅弁がたくさん販売されていますが、ここはグッと我慢してそのままバスに乗り込みましょう。これから向かう鞠子宿には、「東海道五十三次」の浮世絵で有名な歌川(安藤)広重も愛した食があるからです。おそらく西郷隆盛も一度は食したであろう逸品。

静岡駅からは中部国道線の藤枝駅前行きのバスに乗り、東海道を30分ほど揺られると「吐月峰駿府匠宿入口」というバス停に着きます。そこで降りて旧東海道沿いに3分ほど歩いていくと、そこにはまるで江戸時代にタイムスリップしたかのような佇まいの16世紀から繁盛が続く食事処が出現します。

「とろろ汁の丁子屋」です。店の暖簾には「とろろ汁」と戦前の表記にならって右から左へと書かれております。私たちが普段「麦とろ」と呼んでいるこの「とろろ汁」、当時は庶民の料理でしたが、最近は使用する自然薯の価格が高騰しているため高級料理の感もあります。大和芋で代用する店が多い中、 こちらの丁子屋さんでは昔ながらの自然薯を使っております。

実はこの丁子屋さんの創業はなんと1596(慶長元)年。秀吉が朝鮮出兵を行っていたころで、まだ江戸幕府が東海道を整備する前からあった店ということになります。

歌川広重の「東海道五十三次」には、この丁子屋さんと同じ佇まいのとろろ汁の店が描かれています。ただ、歌川広重の絵に丁子屋の文字はなく、この絵が丁子屋であるという確証はありませんが、それでも江戸時代の佇まいを今に残す非常に雰囲気のいい場所です。

東海道五十三次の「鞠子(丸子)」には丁子屋らしき店が描かれている

有栖川宮熾仁親王は高貴の家柄であったため、当時庶民の食べ物であった「とろろ汁」を食してはいないかもしれませんが、西郷隆盛はおそらく鞠子宿で「とろろ汁」を食べたことでしょう。もしかしたら、有栖川宮熾仁親王をお迎えする前に、ここで腹ごしらえをしたかもしれません。

松尾芭蕉も句集『猿蓑』で「梅若葉 丸子の宿の とろろ汁」と詠んでいますし、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では、丸子のとろろ汁が作中で取り上げらえております。こうしたことを西郷が知らないわけはありません。

この鞠子宿は東海道の中で一番小さい宿場町。落ち着いた宿場町のたたずまいを味わうことができ、かつ当時の面影と当時の食を堪能することができるので、訪れる価値は十分にあります。

ちなみに先ほど紹介した広重の絵は、モネの「積みわら」という絵に構図やグラデーションなど影響を与えたということで、日本文化の素晴らしさを体感できる場所でもあります。

3月7日

駿府城の有栖川宮熾仁親王のもとに徳川慶喜の依頼で輪王寺宮公現法親王が訪れ、慶喜の助命と東征の中止を嘆願する。

この嘆願を有栖川宮熾仁親王は一蹴。前日に行われた西郷隆盛らとの会議で、有栖川宮熾仁親王は3月15日に江戸城を攻撃するとの方針を発表していた。

このままでは江戸城総攻撃は必至かと思いきや、実はここには有栖川宮熾仁親王の思惑があった。有栖川宮熾仁親王は京都から駿府に向かう途中、「徳川慶喜が恭順の態度を示すのであれば、慶喜の命は救おう」という考え方に傾いていたのだ。

徳川慶喜を切腹に追い込んでしまっては、旧幕府側の多くの人が反発し事態は好転しない。前日に駿府城で行われた会議では、江戸城の攻撃を発表する一方で、徳川慶喜の助命の条件や江戸城の明け渡しなどについて話し合ったと言われている。

この辺りから江戸城の無血開城に向けて歴史は動き始めていたことになる。

それでは鞠子宿から駿府城へと向かうといたしましょう。

ここはまた中部国道線のバスで静岡駅前行きのバスに乗り込むのがいいでしょう。バスでおよそ25分ほど揺られると中町のバス停に着くので、そこで降りて7分ほど歩けば駿府城公園に到着します。

こちらの駿府城はすべて平成になってから再建されたものなので、当時の面影を偲ぶことはできませんが、この駿府城は家康が75歳の生涯を終えた場所。徳川家康の最期の地で、江戸城の無血開城に向けた動きが起こったどう考えると非常に感慨深いものがあります。

このころ、江戸では旧幕府陸軍総裁の勝海舟と旧幕臣である山岡鉄舟の会談が行われていた。徳川慶喜の助命嘆願が聞き入れられないなか、いかにして徳川慶喜の命を守るか、いかにして江戸での戦闘を回避するかについて話し合われていた。

このとき山岡鉄舟は一言、「私が駿府に入って西郷隆盛と直接会談いたします」と勝海舟申し出たという。山岡鉄舟は一路、当時すでに新政府軍が押さえていた東海道を通って駿府に向かう。一部の人間が思い余って襲撃してくることも十分に考えられたなかでの行動だった。

そして3月9日、西郷隆盛との会談に臨む。

それでは私たちも山岡鉄舟と会うべく会談の場に向かうことといたしましょう。

実は、この西郷隆盛と山岡鉄舟との会見は駿府城で行われたわけではありません。山岡鉄舟は公の使いではなく、あくまで勝海舟の手紙を携えてきた使者という立場。もちろん有栖川宮熾仁親王と謁見することはできず、西郷隆盛とのサシでの会談となるわけです。

会談の場は松崎屋源兵衛宅。松崎屋とは駿府でも随一と呼ばれた醤油醸造元の老舗で、西郷隆盛の宿でもありました。

駿府城からは伝馬町通りを歩いて12分くらいで着くので、ぜひともここは西郷隆盛になった気分で歩いてみることをおすすめします。駿府城での仕事を終えて宿に戻る途中、これからの山岡鉄舟との会談にどう挑むかと思い巡らせながら、この12分の道のりを歩いてみるのも一興でしょう。

現在松崎屋源兵衛宅は残っておりませんが、その場所には石碑が残されています。西郷隆盛と山岡鉄舟を象ったレリーフのある石碑の前で、しばし西郷と山岡の会談の内容を振り返ってみましょう。

山岡鉄舟は勝海舟から託された手紙を西郷隆盛に手渡す。そこには主君慶喜が朝廷に逆らう意思がないことが示されていた。

これに対して、西郷隆盛は7項目からなる和睦の条件を提示する。江戸城の明け渡し、幕府の所有する兵器や軍艦をすべて新政府に差し出すこと、また徳川慶喜の身柄を備前藩に預けることなどだ。

これを見た山岡鉄舟、徳川慶喜を備前藩に預けることだけは頑なに拒否。 これに対して西郷隆盛は、「これは朝廷の命令である」と山岡に強く迫る。

しかし山岡は西郷にこう言い返したという。「あなたは、仮にあなたの主君である島津公が備前藩に預けられるなどということになった場合、おとなしくしていられますでしょうか」

「もし徳川慶喜を備前藩に預けるようなことになれば、この山岡鉄舟を筆頭に、多くの幕臣たちが戦いの狼煙を上げるであろう」

自らの命を賭けてまで乗り込んだ山岡鉄舟の言葉だからこその重み。

西郷隆盛は山岡鉄舟の気迫に押されるように徳川慶喜の身の安全を約束したとも考えられる。そして、西郷隆盛自らが江戸に赴き、最終的な和平交渉を行うことを決定した。
いよいよ、歴史は江戸無血開城へと進んでいきます。次回は、江戸で行われた西郷隆盛と勝海舟の会談の地を巡ります。お楽しみに!
 
 
今回のルート

箱根関所 → 松坂屋本店 → 三島 → 静岡 → とろろ汁の丁子屋 → 駿府城 → 西郷・山岡会見場之史跡
 

PROFILE
金谷俊一郎

歴史コメンテーター、歴史作家。日本史講師として、30年間東進ハイスクールで数々の衛星放送講座を担当。テレビ・ラジオ番組や各地講演会でも、歴史を楽しくわかりやすく伝える活動を行っている。「試験に出るコント」(NHK)では、放送界の最高栄誉「ギャラクシー賞」選奨を受賞。ハーブセラピスト、駅弁王子の肩書きも持ち、著書は60冊以上。累計300万部を突破。歌舞伎の脚本なども手がけ、自らも舞台に立つ側面も。