戦国時代の開始は応仁の乱ではない!? 真の起源とされる2つの事件

武将が知勇を競い合って戦いを繰り広げた戦国時代は、日本史の中でもロマンあふれる時代です。一般的には、戦国時代の始まりは応仁の乱がきっかけだという認識が広まっていますが、最近では新たな見解が示されているようです。歴史研究家の河合敦氏に、戦国時代の真の起源について解説してもらいました。

戦国時代はいつ始まったのか?

日本史で最も人気がある戦国時代。織田信長や武田信玄、上杉謙信などの戦国大名が活躍し、群雄割拠の時代というイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。

この戦国時代という言葉は、十五世紀後半から朝廷の公家たちが、乱れた社会を中国の春秋戦国時代になぞらえて呼ぶようになったのが語源だといいます。

ただ、その定義は研究者の間でも未だしっかり定まっていません。室町幕府が弱体化して下剋上の風潮が強まり、戦国大名が登場して互いに争った時代というのが、最低限の共通認識といえるでしょう。

さて、戦国時代に突入するのは応仁の乱がきっかけだと、学校で習った方もいるかもしれません。

しかし近年は地域によって時差があり、東国は享徳三年(1454年)から始まる「享徳の乱」から戦国期に入ったと教科書に記されています。

また、全国が戦国の世になったのは応仁の乱ではなく、明応二年(1493年)の「明応の政変」だというのが、研究者の間で有力になりつつあります。

「享徳の乱」で関東が戦国時代に突入

西国に先がけて東国が戦国に突入したきっかけが、享徳の乱です。享徳の乱を理解するために、室町幕府と鎌倉府の関係から解説していきます。

室町幕府と鎌倉府の関係

室町幕府を創建した足利尊氏は、関東の統治を目的として鎌倉に鎌倉府という出先機関を設置しました。鎌倉府の長官を鎌倉公方といい、尊氏の三男基氏の家計が代々就任しました。その鎌倉公方を補佐して政務を統括するのが関東管領であり、上杉一族が世襲しました。

鎌倉府の権限は次第に拡大し、やがて東北地方も管轄するようになり、ついには京都の室町幕府と対立するまでに勢力が膨張します。

鎌倉公方の足利持氏は、将軍になることを強く希望していましたが、幕府の重臣たちは容認しませんでした。

こうした状況を危惧して持氏を諫めたのが、関東管領の上杉憲実でした。しかし、持氏はそんな憲実を憎み、憲実を攻め滅ぼそうとします。

六代将軍足利義教が大軍を派遣して持氏を破り、鎌倉府を滅ぼしました。これが永享の乱です。

鎌倉公方方の武士たちの力が弱まり、関東は室町幕府に従順な関東管領上杉氏が実権を握りました。本来であればそのまま関東地方は安定するはずでした。

しかし、将軍義教が謀殺されたのです。新将軍にはわずか八歳の義勝が就きましたが、2年後に病死してしまい、その弟の義成(後の義政)が八代将軍になりました。幕府における将軍の権威が一気に失墜します。

こうした京都の政変は関東に波及し、さらに悪いことに関東管領の上杉清方が急死します。幕府に滅ぼされた鎌倉公方方の武士たちが元気づいていくのは当然でしょう。

彼らは鎌倉公方の復活を幕府に強く働きかけるようになりました。幕府としても鎌倉公方という象徴的存在を復活させたほうが、関東は安定すると判断し、その要求を認めました。

こうして信濃国にいた持氏の遺児・万寿王丸が鎌倉に入り、鎌倉公方に就任します。将軍義成の一字「成」をもらい、成氏と称しました。

かくして鎌倉府が再興され、鎌倉公方の復活により、十年近く力を失っていた公方方の武士たちが力を盛り返し、かつて没収された所領を実力で奪い返す騒動を各地で起こすようになります。関東は安定するどころか危うい様相を呈し始めるのでした。

成氏と上杉氏を取り巻く勢力争いへ

享徳元年(1452年)、成氏の後援者であった畠山持国が管領職を退任し、細川勝元が新たに管領となりました。勝元は親上杉派であり、「今後は関東管領の副そえ状じょうがなければ、鎌倉公方の申し入れには返事をしない」と成氏に伝達してきました。

こうした情勢の激変がきっかけで、享徳三年(1454年)に成氏が言葉巧みに上杉憲忠(憲実の子)を屋敷に呼び出し、殺してしまいます。これが享徳の乱です。

憎き憲忠を屠った成氏は、翌年の正月早々から鎌倉を発って、上杉氏の拠点である上野国を目指して北上していきました。

一進一退の攻防が繰り返されましたが、成氏方の結城成朝軍の奮戦によって上杉軍が劣勢に陥り、上杉軍の敗走が始まります。

成氏の軍事行動に対し、室町幕府は追討軍を派遣することを決定。京都にいる憲忠の弟である房顕を関東管領に任じ、追討軍の総大将に任じました。

後花園天皇が正式に成氏追討の綸旨を発し、これにより成氏は朝敵となってしまいます。

しかし、それでも成氏に心寄せる関東武士は多くおり、成氏は下総国古河に御所を定めて上杉勢力と戦い続けました。

このように、享徳の乱をきっかけに関東武士は分裂し、成氏と上杉氏を取り巻く勢力との間で30年以上も争いが続きました。東国は他の地域よりも早く戦国の世に突入したのです。

全国に戦国時代をもたらした「明応の政変」

研究者の間では、応仁の乱が集結してから16年後に起こった明応の政変こそが、戦国時代を到来させたとする考え方が強くなりつつあります。

というのも応仁の乱が終結すると、再び室町幕府が統一され、しっかりと機能するようになったからです。

つまり、応仁の乱の後に幕府が完全に力を失って全国が下剋上の世になり、戦国大名たちが分国を拡大するために相争うようになったという解釈は正しくはありません。それでは応仁の乱の後、どのように戦国時代へ突入していったのでしょうか?

室町幕府の新将軍が早くも病死

新将軍は、将軍足利義政の正妻である日野富子の子である義尚です。しかし、義尚は二十五歳の若さで病没してしまいます。

義尚が亡くなると、日野富子は足利義視の子である義材を将軍にしたいと考えました。

その一方で細川勝元の子で幕府の実力者である政元は、清晃を将軍にしたいと考えました。清晃は、義政の異母兄で堀越公方となった足利政知の子です。

ただ、将軍家における富子の権限は強く、新将軍には義材が就任しました。

明応三年(1494年)に細川政元は突如挙兵し、清晃を自分の屋敷に迎え入れます。義材を廃して新将軍に清晃を擁立することを宣言しました。これが、明応の政変の始まりです。

細川政元は、畠山政長を討つという名目で、将軍義材のいる河内へ大軍を派遣。戦いに敗れた政長は自殺し、義材も抗しきれずに降伏します。捕縛された義材は、京都に連れ戻されて幽閉されました。

同年十二月、還俗した清晃は十一代将軍となりました。名前を何度か変えますが、以後は一般的に知られている義澄と記すことにします。

幕府の家臣によって将軍の首がすげ替えられる時代になったことは、これまでと異なる大きな変化でしたが、それだけでは事は終わりませんでした。

日本に二人の将軍が分立

身の危険を感じた義材が京都を密かに脱し、故・畠山政長が支配していた越中国放生津へ入り、さらに諸国の守護大名に細川政元の征討を呼びかけ、北陸の諸大名を糾合し始めます。

その後は越前国を拠点として勢力を拡大し、上洛を目指して近江国坂本まで攻め上っていきます。

しかし、戦いに敗れて京都の奪還に失敗し、有力大名の大内義興を頼って西国の周防へ入りました。ただ、それからも将軍として振る舞い、諸大名にさまざまな命令や通達を発し始めたのです。

こうして日本に二人の将軍が分立する状況が生まれました。

明応の政変を機に、将軍家は義材系統と義澄系統に分裂し、守護大名を巻き込んで争い続けるようになります。

こうした中、室町幕府の支配力は山城一国にしかおよばなくなり、その実権も細川氏からその家臣の三好氏に移り、さらにその家来だった松永久秀に移っていきました。

対して地方では、独立した権力である戦国大名が登場し、それぞれが自分の分国を拡張するため相争うようになりました。

戦国大名の出自は、守護大名だったり、守護代だったり、国人だったりと多様です。いずれにせよ、実力がものをいう時代に大きく変わったのです。

 

PROFILE
河合敦

歴史研究家、歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆・監修のほか講演やテレビ出演も精力的にこなし、わかりやすく記憶に残る解説で熱く支持されている。著書に『日本史は逆から学べ』(光文社知恵の森文庫)、『歴史の勝者にはウラがある』(PHP文庫)、 『禁断の江戸史』(扶桑社新書)などがある。