誰にも訪れる“死”という大問題に宗教はどう答えているか【佐藤優】

佐藤優

還暦からの人生で最も重要なのは、死と向き合う心の準備だといっても過言ではありません。死は誰にでも訪れるものですが、誰もその経験や真実を知る人はいないからです。ただし、作家の佐藤優さんによると、死をむやみに恐れる必要はなく、どうやって受け止めるかは各宗教の死への向き合い方が参考になるそうです。

キリスト教徒の死との向き合い方

死んだらどうなるのか? この世での存在が消えたら無になるのか? あるいは魂はまた別の世界へ行くのか?

そうしたことがまったくわからないことが、死の恐怖の実体です。古今東西、宗教は人間の死をどうとらえるかという問題に対して、それぞれに答えを出してきました。それが死の恐怖を和らげ、生きる意味を確認する効果があった。

特にどこかの宗教に帰依すべきということを言いたいのではなく、さまざまな宗教の死生観に触れることも、自分の死と向き合うときの大きなヒントになります。

私はキリスト教徒(プロテスタントのカルヴァン派)ですから、死についての考え方もそこに強く影響を受けていることは言うまでもありません。キリスト教では、死ぬと肉体も魂も一度完全に滅びてしまう。その滅びた肉体と魂がイエス・キリストの再臨で復活し、審判にかけられます。これが有名な最後の審判です。神を信じ、神の意向にならって生きたものはイエス・キリストと共に神の国に行き、永遠の命を得るとされています。

キリスト教徒は、それゆえに死こそが信仰の完成であり、神の国に向かうための門だと考えています。ですから死というものを怖れていません。命は自分のものではなく神のものであり、すべて神の意向と愛によって復活することを信じるのがキリスト教徒です。

「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは、死んでも生きる』。」(ヨハネによる福音書11章25節)

特にプロテスタントの人たちはその傾向が強い。プロテスタントは絶対他力を基本としていますから、自分がどんなに善行を行おうと、それが神の国に行けるかどうかに影響することはありません。すべては予め神が決めることなのです。

これを突き詰めると、人は生まれたときから、復活して神の国に行き永遠の命を持つ者と、滅び去る者とに分けられているということになる。では、どうせ最初から決まっているのなら何をしてもいいのか。当然ですがそうはなりません。そのように考える人は、そもそも選ばれていない人だからそう考えるのであり、選ばれている人は自ずと神の意志に従い、神にならって正しく生きていく。こう考えるのがプロテスタント教徒です。

ごく簡単に言ってしまえば、プロテスタント教徒は自らを選ばれた人間だと信じています。そして自分の命は自分のものではなく神のものであり、再び神のもとへ帰るべき命だと考えています。もちろん最後の審判の結果は神のみぞ知る、なのですが……。

ですから死は忌み嫌うものではなく、完成であり目的なのです。英語の「end」という言葉には「終わり」という意味と同時に、「目的」という意味があります。それはキリスト教的な時間概念が反映されているからです。

キリスト教では自分の生きていた時間、そして死とイエス・キリストの再臨、最後の審判から神の国へ、あるいは滅びへという流れは、明確に区切られています。死や最後の審判という時間の終わり(区切り)が、それぞれの完成であり目的なのです。

仏教における死のとらえ方とは

このような考え方は、仏教的、神道的な考え方とはかなり異なります。非キリスト教徒である日本人の多くは、これらの話を聞いてもすぐには腑に落ちないでしょう。日本人の多くが持っている〝あの世〟に関する観念は、以下のようなものです。

仏教における死は、すなわち肉体の死であり魂は別の場所に行きます。死後6日目までには花畑や賽の河原、三途の川を渡ります。三途の川を渡り終わって7日目に閻魔大王をはじめとする10人の大王の審査が始まります。

そこで生前の罪や悪がすべて審査され、49日目に六道のどこに生まれ変わるかが決まります。六道とは天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の6つ。

天道とは人間より上級とされる天人が住むところで、ほとんど苦しみがなく、自由に生きることができます。人間道は私たち人間が住む世界であり、四苦八苦と呼ばれる苦しみの多い世界でもありますが、楽しみもある世界です。

修羅道は終始戦いと争いに明け暮れる修羅が住む世界。戦いが絶えず楽しみはないものの、地獄のような苦しみはない世界です。

畜生道は牛馬などの畜生の世界で、他者に飼われることで食べることに苦労はしないものの、自分という存在が稀薄です。自分で仏の力を感じることができず、救いの少ない存在とされます。

餓鬼道は食べ物を口に入れようとすると火になり、終始飢えと渇きに苛まれます。自分だけの欲望を満たし、他人をないがしろにしてきた人が陥る世界とされます。

地獄道は仏教における世界観では最下位にある世界で、大きな罪悪を犯したものが死後に行く場所。その罪の重さによって灼熱地獄、極寒地獄、阿鼻地獄、叫喚地獄などに行くとされています。

この六道すべてが輪廻転生の輪のなかにあり、転生を繰り返しながら気が遠くなるような時間をこのなかですごします。いずれ解脱し、輪廻の輪から外れて永遠の悟りの世界に行く。これが基本的な仏教の死生観です。

仏教は因果論、キリスト教は決定論

ブッダは、この世の苦しみである四苦八苦はすべて人間の煩悩が引き起こすものであり、同時にそれが解脱を阻む元凶だと説きます。私たち人間は正しい認識と行い(八正道)を実践し、煩悩を抑えて解脱し涅槃に入ることを目的にしなければならないと説きました。

このような仏教の死生観、世界観はキリスト教的なそれとは大きく違います。キリスト教では死後は肉体も魂も消滅し、最後の審判の際に復活しますが、仏教ではこの世界での肉体は滅びても魂は残り、それが六道を巡りながら再び肉体を得ていずれかの世界に転生すると考えます。

キリスト教の時間は一方向に流れる直線的なものであり、死と復活、最後の審判以後と質的に区切られているのに対して、仏教的な時間はほぼ永遠に繰り返し、同じ時間の流れが継続していると考えられます。

そして悪因苦果、善因楽果という言葉があるように、悪い行いをすると人生で苦しいことが起き、よい行いをすると楽しいこと、楽なことが起きるとされています。つまり仏教は因果応報であり、因果論が前提になっていると考えていいでしょう。

八正道を実践して善行を積むことで煩悩を滅却し、解脱を目指すというのが仏教であり、基本的には自力救済が原始仏教の本質です。

一方、キリスト教の考え方、特にプロテスタントの考え方は違います。プロテスタントは、前にもお話しした通り、神の国に行く人と滅びる人は決まっているという予定論をとります。そこにおいて自分の力は関係ありません。神が選んでくれるかどうかだけであり、また悪や罪を許してくれるのも神だけ。罪が深く不完全な人間の力では、どうすることもできないものだと考えます。

既存宗教はどう死に向き合っているか

科学技術が発達して、宗教的な考え方はすでに非科学的であると多くの人が考えていますが、同時に宗教的な意識は人々に根深く残っているというのも事実でしょう。

日本人には、死ぬと魂は別の世界に行くのではないかという潜在意識がある。彼岸やお盆になるとお墓参りに行き、線香をあげて手を合わせ、亡くなった人の存在を思い出すのはその証左だと言えます。

日常生活でも、いいことをすれば自分にとっていいことが起きて、悪いことをすれば何かに罰せられないかと怖れる。宗教的な思考の原型がしぶとく残っているのです。

同じことが、キリスト教を信じる欧米の人たちにも言えます。中世以前ほどではないにしても、宗教的なリアリティは科学技術全盛の現代でも色濃く残っています。

なぜかと言えば、「死」というものがいまだに私たちにとって不可知なものであり、現代科学理論や科学技術をもってしても解明できていないからです。

むしろ現代ほど、死が見えにくくなっている時代もありません。近代以降、人間の理性を重んじ、客観的な知性を重視する風潮のなかで、目に見えない「死」は安易に語ることのできない領域となりました。

現代的な解釈では、死とは意識がなくなり、心臓が止まり、生体反応がなくなって脳が死んでしまうというひとつの物理的な現象としかとらえられなくなった。それ以上のこと、つまり物質的な現象の範疇を超えることにはあえて触れない、考えないというのが医学など、アカデミックな分野における暗黙の了解です。

ただし、だからといって死の不安や恐怖がなくなるわけではありません。むしろ宗教的なリアリティが薄まっているだけに、人々の死を怖れる気持ちが強くなっているというのが実情のようです。

その点、仏教にしてもキリスト教にしても、あるいはイスラム教やユダヤ教にしても、すでに長きにわたって命脈を保っている宗教は、いずれも死に対する向き合い方、とらえ方が明確です。葬儀などで一時的にせよそうした宗教に帰依する人が多いのは、死の解釈に揺るぎない安定感、安心感があるからでしょう。

死の不安と恐怖を和らげ、人生を有意義で価値あるものとするために、既成宗教の死に対する考え方を学ぶこともひとつの方法です。あらためて調べてみると、知っていたようで知らないこと、思いがけない発見があり、興味は尽きないと思います。

もちろんそれは、何らかの宗教に入信することを意味しません。仏教やキリスト教などについて、書籍などを通してその思想や行動原理を知っておく。それぞれの宗教が大切にしていること、何を忌避しているのかを知る。

生きるとはどういうことなのか、死とは何で、それとどう向き合っているのか。そういった視点で俯瞰するだけでも、大きな参考になると思います。

 

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佐藤優

PROFILE
佐藤優

1960年東京都生まれ。85年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務を経て、95年、同省国際情報局分析第一課主任分析官。2002年、背任及び偽計業務妨害容疑で逮捕。09年、背任及び偽計業務妨害の有罪確定で外務省を失職。13年、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。捜査の内幕を描いた『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)が05年に出版されると大反響を呼ぶ。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞

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