西郷隆盛と巡る「江戸無血開城への旅」~②駿府城から洗足池へ【旅する日本史】

西郷隆盛

歴史は人々の営みによりつくられ、人々の営みは人々の足跡によりつくられる。一つの史実に沿って、歴史上の人物が歩んだ足跡を巡る旅のプランを提案する『旅する日本史』の第二回目。史実の英雄になったつもりで、あるいは参謀役になったつもりで時系列に沿って史跡を辿ることで、あたかも自分が歴史の目撃者になったかのような旅を体験できます。今回は、鳥羽・伏見の戦いで敗れた15代将軍・徳川慶喜を追う西郷隆盛率いる新政府軍と、江戸の街と徳川慶喜を守ろうとする旧幕府側のせめぎ合いを追った「江戸無血開城の旅」の後半。それでは今から、歴史上の人物とともにタイムスリップに出かけましょう!

川崎宿で篤姫からの書状を受け取る

前回は、駿府(静岡)での山岡鉄舟と西郷隆盛の会談までを見てきました。ここから舞台は江戸へと移り、江戸無血開城へ向けた動きが加速していきます。

それでは、私たちは二人が会談した場所から12分ほど歩いて静岡駅に赴き、そこから新幹線で品川駅へ向かうといたしましょう。品川駅からは、東海道本線で隣駅の川崎に向かいます。

歴史に詳しい方であれば、「あれ、今から勝海舟との会談をした薩摩藩邸がある田町駅に向かうのでは?」と思うかもしれません。しかし、私たちは西郷隆盛と同じルートを辿る旅をしているのです。勝海舟と会見する直前に、西郷隆盛が川崎で遭遇した出来事も抑えておかなければなりません。

川崎駅を出て10分ほど歩くと、「川崎宿由来の碑」という石碑があります。川崎宿があったこの地で、西郷隆盛は一通の書状を受け取っていたのです。

手紙を渡した人物は幕府御典医の浅田宗伯。その手紙の差出人は、あの天璋院篤姫でありました。大河ドラマの主役ともなったこの天璋院篤姫とは、13代将軍徳川家定の御台所(正室)で、島津家の出身。

もちろん、西郷隆盛は「会戦も辞さず」とある程度腹をくくっていたでしょうが、このタイミングで天璋院篤姫から慶喜の助命と徳川家の存続を願う手紙を受け取ったのは、非常に大きな出来事だったのではないかと考えられます。この天璋院篤姫は、江戸無血開城を待たずして大奥を立ち退きました。

この地で天璋院篤姫からの書状を受け取ったら、再び江戸に戻るといたしましょう。

3月12日

西郷隆盛は3月15日に予定されている江戸総攻撃に向け、品川へと軍を進める。西郷自身は芝にあった薩摩藩邸に逗留し、翌3月13日、ここで西郷隆盛と勝海舟の会談が行われることになる。

それでは再び東海道線に乗って一駅、品川駅で降ります。旧薩摩藩邸の蔵屋敷へは、そこから山手線に乗って2駅の田町駅で降りて徒歩4分ほど。現在はビルの林立するオフィス街となっており、当時を偲ぶものは何もないように見えますが、そこには「西郷南州・勝海舟会見之地」と記された石碑があります。

f:id:SOmaster:20210607122119j:plain

田町駅から徒歩4分ほどの第一京浜沿いに、「江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地」の碑がある

西郷隆盛と勝海舟がたしかにここで会談をしたこと、歴史が動いた舞台であることは紛れもない事実だと実感できます。その地でしばし、西郷隆盛と勝海舟の会見内容に思いを馳せるといたしましょう。

3月13日

西郷隆盛と勝海舟の一度目の会談。旧幕府陸軍総裁勝海舟は、会談でいまだ江戸城にいる14代将軍徳川家茂婦人和宮を話題にする。和宮は孝明天皇の妹。勝海舟は和宮の安全の確保こそが最重要課題であり、戦いを行うか行わないかについては本日話すべき内容ではないとして早々と会議を切り上げる。これは、江戸城総攻撃を予定する新政府へのけん制とも取れる内容だった。

翌日行われた二度目の会談で、勝海舟は西郷隆盛が提示した降伏条件に対する回答を行う。江戸城の明け渡しについては、「江戸城は徳川一族の田安家が預かる」、陸海軍の武装解除に関しては、「武器のうち一部は徳川家に戻す」、徳川慶喜の備前藩預かりについては「徳川慶喜は実家である水戸藩で謹慎させる」と回答した。

これは事実上の和平条件の拒否ではあったが、西郷隆盛は「この内容では朝廷の意向を聞かなければならない」と考え、江戸への総攻撃を一旦中止。京都に戻り、朝廷の意向を聞くことを約束した。

愛宕神社で二人の会話に思いを馳せる

旧薩摩藩邸での会見が終わりましたが、東京にはまだまだ江戸城無血開城に向けて西郷隆盛と巡らなければいけない場所がたくさんございます。

まずはここから港区にある愛宕山に向けて歩いて行きましょう。一説では、二人は会談後にこの愛宕山に赴いて、江戸の町を眺めつつ「この美しい街を戦火で包むようなことはやめようではないか」と話し合ったと言われているのです。

愛宕山へは都営三田線を使ってもいいのですが、ここは西郷隆盛と勝海舟が一緒に歩いたと想定されるルートを辿っていきたいと思います。

まずは二人の会見の地から徒歩10分のところにある「慶應義塾東門」のバス停へ行き、そこから東98系統のバスで四つ目、「慈恵会医大前」の停留所で降ります。そこから4分ほど歩くと愛宕神社があります。

愛宕神社は愛宕山にある神社で、山といっても標高わずか25.7メートル。現在は7階建て以下のビルの方が珍しいような場所なので、残念なことに眺望はまったくありませんが、当時は江戸の町が一望できたほど見晴らしのいい場所だったと言われています。

西郷隆盛と勝海舟が、ここでどのような話をしたのかと思いを馳せると、時間の経つのも忘れてしまいそうです。

f:id:SOmaster:20210607123549j:plain

愛宕神社には曲垣平九郎の故事で有名な「出世の階段」がある

ちなみに、この愛宕山は周囲に比べて標高が高いことから、1925年にラジオ放送が開始されたときにはNHK東京放送局が置かれていました。高台は電波を発信するのに好都合だったんですね。近くには放送博物館などもあり、放送に関する資料もたくさん展示されています。時間があれば訪れてみるのも楽しいかもしれません。

3月20日[京都] 会議で無血開城が決まる

西郷隆盛は、勝海舟の示した案を京都に持ち帰る。強硬論者であった西郷隆盛が徳川慶喜の助命嘆願に考えを変えたことに人々は驚いたと言われている。

京都に帰還した西郷隆盛は三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允といった新政府首脳陣と会議を行う。

「徳川慶喜の死罪を免除し水戸藩で謹慎させる」「江戸城は新政府の管理の下で尾張藩が実務を行う」「武器や軍艦は新政府が接収したうえで、必要なものを徳川家に返す」という内容で調整がついた。

本来は西郷隆盛と一緒に京都に戻って岩倉具視らと会談したいところですが、そこまで再現するのはなかなか大変なので、ここは東京で江戸城に入るまでの流れを見ていくといたしましょう。

4月4日[江戸] 西郷隆盛らが江戸城へ入る

再び江戸に戻った西郷隆盛は勝海舟らと最終的な条件を詰め、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀西郷隆盛らが兵を率いて江戸城へ入った。

西郷らは大広間上段に導かれ、そこで徳川慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下す。翌4月11日、徳川慶喜は謹慎していた寛永寺から水戸に出発した。

4月21日、東征大総督で政府の総裁であった有栖川宮熾仁親王が入城することで、江戸城は正式に大総督府の管下に入る。ここに江戸城の無血開城が実現した。

愛宕山から7分ほど歩いたところに、最近できた日比谷線の「虎ノ門ヒルズ駅」があります。この駅から日比谷線に乗り4駅先の東銀座駅へ。東銀座駅で都営浅草線に乗り換えて、10駅の西馬込駅。そしてこの西馬込駅から16分ほど歩くと池上本門寺があります。

この池上本門寺も西郷隆盛と勝海舟の会見の場として知られる場所。西郷隆盛が京都から戻ってきた後、ここで最終的な話し合いをしたのです。

f:id:SOmaster:20210607125701j:plain

池上本門寺は東京都大田区池上にある日蓮宗の大本山

池上本門寺の園内には四阿あずまやがあり、そこで西郷隆盛と勝海舟は江戸無血開城に向けて会見を行ったと伝わっております。この四阿は現存しませんが、跡地には会見場所であることを示す石碑が立っています。この石碑は、西郷隆盛の甥である西郷従徳の筆によるものです。

[ここも行っトク!] 木村屋総本店

銀座四丁目の交差点の和光の横に、あんぱんでおなじみの木村屋総本店があります。実はこの木村屋総本店の看板を書いたのは、江戸無血開城へ命をかけて尽力した山岡鉄舟なのです。木村屋の創業者である木村安兵衛は、山岡鉄舟と剣術を通じて知り合ったと言われています。木村安兵衛は茨城県の出身、一方の山岡鉄舟は将軍徳川慶喜のお供でたびたび水戸藩に出かけていたというつながりから懇意になったとか。
西郷隆盛の依頼で1872(明治5)年から宮中に出仕していた山岡鉄舟は、1874(明治7)年に木村安兵衛の開発したあんぱんを試食。当時銀座で売られていた西洋のパンとはまったく違う味に山岡鉄舟は感動し、「ぜひとも明治天皇に召し上がっていただきたい」と思い、翌年4月4日に隅田川沿いの水戸藩下屋敷での花見の会でこのあんぱんを明治天皇に献上したのです。
明治天皇はもちろんのこと、とりわけ皇后陛下がこの味をお気に召されたらしく、「引き続き献上するように」との明治天皇のお言葉をいただいたという。

銀座和光の隣、木村家銀座本店の看板は山岡鉄舟の揮毫


ここから西郷隆盛とともに江戸城(現在の皇居東御苑)に向かってもいいのですが、今はコロナ禍で見学はかなわない状況。であれば、私たちは江戸城に向かう西郷隆盛とは一旦解散して、洗足池公園へと向かうことといたします(なぜ洗足池公園に向かうのかにつきましては、着いてからのお楽しみ)。

池上本門寺から10分ほど歩くと東急池上線池上駅に着きます。そこから池上線の五反田行きに乗り、6駅で洗足池駅に到着。そこから4分ほど歩くと洗足池公園です。

勝海舟は1891(明治24)年、この洗足池公園周辺に土地を購入し、「洗足軒」という別荘を構えます。洗足池は歌川広重の「名所江戸百景」にもその姿が描かれるほどの景勝地。晩年は、この地で旧幕臣などと漢詩を詠んでいたりしたのです。

勝海舟の洗足軒は戦災で焼けてしまったため現在はその姿を見ることはできませんが、跡地には大田区立大森第六中学校があります。洗足池公園から大田区立大森大田区立第六小学校までは目と鼻の先。このルートはおそらく勝海舟も散歩などで何度となく歩いたルートだと想像できます。

この洗足池公園には、勝海舟と西郷隆盛のつながりを示す痕跡が残されています。西郷隆盛は江戸城無血開城の10年後の1877(明治10)年、西南戦争でその命を散らすこととなります。享年51。このとき西郷隆盛の死を悼んだ勝海舟は、西郷隆盛の漢詩が刻まれた石碑を自費で建立したのです。

表には西郷隆盛が沖永良部島に流されたときに詠んだ漢詩が、そして裏には何と勝海舟の漢詩が刻まれているのです。まさしくこの洗足池公園は、二人をを偲ぶことのできる場所と言えるのではないでしょうか。

f:id:SOmaster:20210607161705j:plain

西南戦争でこの世を去った西郷隆盛(南洲)を惜しんで勝海舟が造立した留魂祠。左側に見えるのが二人の漢詩が刻まれた石碑

勝海舟は1899(明治32)年、この洗足池の別荘において脳溢血で亡くなりました。享年77。この洗足池公園には、勝海舟夫妻の墓もあります。妻の民子はすでに亡くなっており、青山霊園に眠っていましたが、勝海舟が亡くなったのをきっかけにこの洗足池に墓が移されました。最後は、勝海舟の墓参りでこの旅をしめるというのはいかがでしょうか。

 
今回のルート

川崎宿 → 江戸開城 西郷南州・勝海舟会見之地 → 愛宕神社 → 池上本願寺 → 池上本門寺 → 洗足池公園

PROFILE
金谷俊一郎

歴史コメンテーター、歴史作家。日本史講師として、30年間東進ハイスクールで数々の衛星放送講座を担当。テレビ・ラジオ番組や各地講演会でも、歴史を楽しくわかりやすく伝える活動を行っている。「試験に出るコント」(NHK)では、放送界の最高栄誉「ギャラクシー賞」選奨を受賞。ハーブセラピスト、駅弁王子の肩書きも持ち、著書は60冊以上。累計300万部を突破。歌舞伎の脚本なども手がけ、自らも舞台に立つ側面も。