日本が太平洋戦争に突入した本当の契機は「ノモンハン事件」だった

歴史には大きなターニングポイントがいくつも存在し、日本人はその時々で進む道を選んできました。そのなかで、小さな出来事にすぎないように見えるものが、実は大きな失敗のきっかけであることもあります。日本軍がソ連軍に大敗したノモンハン事件もその一つ。ノモンハン事件が太平洋戦争の引き金となり、日本を破滅させたという説があります。今回は歴史作家の河合敦氏にノモンハン事件について解説してもらいました。

ソ連との間でノモンハン事件が起こったきっかけ

ノモンハン事件は日本から離れた地で起こった事件です。ノモンハン事件を理解するために、まずは日中関係からおさらいする必要があります。日本とソ連の敵対関係が悪化するまでの流れを確認していきましょう。

日本が満州国を樹立

第一次世界大戦で空前の好景気を経験した日本でしたが、大正九年(1920年)に戦後恐慌に見舞われてから十年以上不景気が続き、昭和五年(1930年)には世界恐慌が波及して昭和恐慌が到来しました。

国民は政党内閣に失望し、軍部に期待するようになり、この支持を背景に関東軍が暴走していきます。

関東軍は、満州に駐留する日本軍です。ポーツマス条約でロシアから得た関東州(南満州の一部)と満鉄を守備するために駐留した陸軍部隊が、大正八年(1919年)に独立して関東軍となったのです。

関東軍は昭和六年(1931年)九月、自分たちで奉天郊外の柳条湖で満鉄線路を爆破。国民政府(中国を統治していた政権)の仕業だとして中国基地への攻撃を開始(柳条湖事件)します。日本列島の三倍近い面積を有する満州を占領しようとしたのです。

一方、不況に苦しむ国民の多くは、関東軍の行動を熱狂的に支持します。翌年、関東軍は占領下においた奉天・吉林・黒竜江省(東三省)に満州国を樹立しました。

ただ、日本陸軍は満州だけでは満足しませんでした。昭和十年(1935年)から満州に隣接する華北五省(河北・山東・山西・綏遠・チャハル省)を中国から切り離して勢力下におこうとします。いわゆる華北分離工作です。

ソ連が国民政府を支援

国民政府は共産党との内戦を優先し、日本軍の侵略を黙認してきました。しかし、華北分離政策が進むと方針を転換。共産党と手を組んで中国から日本勢力を排除しようと決意します。

そんな状況の昭和十二年(1937年)七月七日、日本の支那駐屯軍が北京郊外の盧溝橋付近で夜間の軍事演習をしていたさいに銃撃をうけました。これを中国軍の攻撃だと考え、日本軍は中国軍に戦いをしかけて戦闘に発展します。世にいう盧溝橋事件です。

紛争は現地で停戦が成立しましたが、近衛文麿内閣が軍部の意向を受け増派を決定したのです。すると共産党と連携した国民党は徹底抗戦を宣言し、日中両軍の全面衝突に発展してしまいます。

近衛内閣は「国民政府を対手とせず」という声明を発表し、講和・交渉の相手である国民政府を否認して戦争収拾の道を自ら閉ざしました。

こうして日中戦争が泥沼化するなか、列強諸国は国民政府を支援するようになります。ノモンハン事件の当事国であるソ連も支援国の一つだったのです。

実は、日本の傀儡である満州国の国境はソ連と接していました。日中戦争がはじまる前から国境付近で小さな紛争がたびたび起こっていましたが、ソ連が国民政府を支援したことで、日ソ関係はさらに険悪となったのです。

ノモンハン事件を機にアメリカとの敵対関係が生まれた

日本はアメリカと敵対したがゆえに、過酷な戦争に巻き込まれていきました。なぜ、ソ連から一転して、アメリカと敵対する構図が生まれたのでしょうか。

結論としてノモンハン事件がきっかけだったといわれています。アメリカとの敵対関係が生まれるまでの流れを追っていきます。

ノモンハン事件が勃発

昭和十四年(1939年)五月、ソ連との間でノモンハン事件という国境紛争が勃発します。ハルハ河東岸のノモンハンと呼ぶ満州国とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境地帯です。

モンゴル人民共和国は、ソ連の支援で中国から独立したばかりでした。ノモンハンは満州国もモンゴルも自国の領土と主張する地域です。

五月十日から両国軍の衝突が始まり、日本軍(第二十三師団)はいったんモンゴル軍を退却させましたが、ソ連軍が応援に来てモンゴル軍と共に再びノモンハンに陣地をつくりはじめます。

そこで日本軍は一部をノモンハンに派遣しますが、その主力は全滅します。なおかつ、ソ連軍は大量の航空機や重火砲、そして戦車を含む大兵力をノモンハン付近に集結させました。このため日本側(関東軍)も漸次兵力を増やしていきます。

関東軍が暴走

兵力を増やしていったのには理由があります。実は紛争が起こる一月前、関東軍の作戦参謀・辻政信が「満ソ国境紛争処理要綱」を作成し、それが関東軍全軍に通達されていました。

国境線をしっかり確定させ、もし紛争が起こったら兵力の多寡に関係なく武力を行使して勝てという内容でした。

こうしてノモンハンをめぐって日本軍とソ連・モンゴル連合軍の大規模な衝突が始まると、さらに国境紛争という範疇を超え、互いに敵の陣地を激しく空爆しあうようになります。

ただ、大本営や軍中央は、敵陣地への空爆は認めておらず、戦いの規模拡大も赦していませんでした。つまり、関東軍(満州国を守備する日本軍)が暴走したのです。

第二十三師団が壊滅状態に

なお、日本の戦車はソ連軍にまったく歯が立たず、第一戦車団は帰還を余儀なくされ、戦いは次第に日本側が劣勢に立たされていきます。

日中戦争が泥沼化しつつあるゆえ、この事態を早期に解決すべきだという意見もありましたが、結局、現地の関東軍は戦線を拡大し、第二十三師団を全面投入しました。

しかしソ連の機械化部隊には歯が立たず、約一万七千人の死傷者を出して完全に第二十三師団は壊滅状態となります。

日本政府が停戦を申し入れ、敗北

日本軍とソ連・モンゴル軍が激戦を演じている最中、驚くべき外交上の出来事が起こりました。独ソ不可侵条約が結ばれたのです。

日本は、ソ連など共産主義に対抗するため、昭和十一年(1936年)、日独防共協定(翌年イタリアが参加)を結んでいました。ところが日本にまったく知らせることなく、ドイツはソ連と不可侵条約を結んだのです。

さらに翌九月一日、ドイツ軍がポーランドに侵攻、するとイギリスとフランスがドイツに宣戦、第二次世界大戦が勃発します。

事態の急変を受け、大本営は関東軍に戦闘の停止を厳命。その間に日本政府はソ連に停戦を申し入れます。しかも国境は、ソ連とモンゴルの主張するラインを受け入れてしまったのです。

つまり結果を見れば、ノモンハン事件は日本側の敗北に終わったのです。

北進論を放棄、南進論が台頭

ノモンハンでの戦いの後、大本営はソ連への対応に極めて慎重になりました。積極的にソ連と対峙すべきだという北進論が影を潜めたのです。また、この事件での責任を負わされ、関東軍の参謀の多くは予備役に編入されました。

いっぽうのソ連は、日本との全面戦争の憂いがなくなると、ドイツに続いてポーランドへ侵攻。逆に日本では、東南アジアへの進出を掲げる南進論が台頭してきました。

日中戦争は二年以上が過ぎても終わる気配がなく、八十五万人を超える将兵を投入し続けたので、日本国内では物資の不足が深刻化しはじめます。

どうにかして国民政府を降伏させたいが、イギリス、アメリカ、フランス、ソ連などが大量の物資を送り続けているので困難でした。逆に日本に対して列強諸国は、経済制裁を強化する一方だったのです。

このため、石油やボーキサイトなど資源が豊富な東南アジアへ進出しようというのが南進論でした。北進論が消滅したのに加え、ドイツが連戦連勝を続けフランスを降伏させ、イギリスを追い詰めていました。それがますます国民の南進論への支持を過熱させます。

このため日本政府は昭和十五年(1940年)に日独伊三国同盟を結び、さらに翌年、ソ連と日ソ中立条約を結んだのです。

アメリカと敵対関係に

こうして北進論を完全に放棄した日本は、ドイツの勝ちに乗じて、英米との戦争覚悟でフランス領インドシナなどへの進出を開始。

その結果、アメリカが大いに怒り、日本への石油輸出を止めます。追い詰められた日本はハワイの真珠湾を爆撃し、暴発するようなかたちで太平洋戦争へなだれ込んでいくのでした。

その後、日本は各地で敗北を重ね、破滅の一途をたどっていきます。東京大空襲によって首都であった東京も焼け野原になりました。

ノモンハン事件による北進論の衰退・放棄からの南進政策の実施が、こうした流れをつくっています。まさにノモンハン事件は、日本が道を踏み外したターニングポイントだと言わざるをえません。

 

PROFILE
河合敦

歴史研究家、歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆・監修のほか講演やテレビ出演も精力的にこなし、わかりやすく記憶に残る解説で熱く支持されている。著書に『日本史は逆から学べ』(光文社知恵の森文庫)、『歴史の勝者にはウラがある』(PHP文庫)、 『禁断の江戸史』(扶桑社新書)などがある。