“貨物線の途中駅”だった新宿駅が巨大ターミナルに成長できた理由

新宿駅

新宿駅における一日平均の乗降人員数は、5つの鉄道会社を合計すると約360万人(2019年)。これは日本の鉄道駅でもちろん第1位であり、2007年にギネス世界記録に認定されて以来、「利用者数世界一」の地位を守り続けているのだ。新宿駅にはなぜ、これほどまでに人々が集中するのだろうか。新宿駅が世界一の巨大ターミナル駅になるまでの歴史を、都市政策専門家の市川宏雄氏が解説する。

明治時代に日本鉄道品川線の途中駅として誕生

新宿駅が誕生したのは、1885(明治18)年3月1日。建設したのは、日本初の私鉄である日本鉄道だ。当初の駅名は「内藤新宿」だったが、2年後に「新宿」駅に改称される。当時の住所は「東京府南豊島郡角筈村字渡邉土手際」。東京市外の、人家もまばらな土地柄だった。

ご存じのとおり、日本で初めて鉄道が開業したのは新橋駅-横浜駅間。1872(明治5)年10月14日のことで、その翌日から1日9往復の列車が運行され、新橋-横浜間(途中駅は品川、川崎、鶴見、神奈川)の29kmを53分かけて走った。翌年には収入が経費を上回る黒字路線となり、鉄道建設はそこから日本全国で急拡大していくはずだった。

ところが、1877(明治10)年に勃発した西南戦争の戦費が明治政府の財政を厳しく圧迫する。その結果、すでに建設許可が下りていた東京-高崎間の鉄道建設が1880(明治13)年に取り消され、官営では東海道線以外の鉄道建設がほぼストップしてしまう事態となった。

こうした状況を憂えたのが当時の華族や士族たちだった。彼らは当時政府の右大臣だった華族の岩倉具視に働きかけ、自分たちの所有する財産を担保に鉄道会社の創設を願い出る。その願いは聞き届けられ、1881(明治14)年には岩倉具視らを中心に日本鉄道が設立され、東京-高崎間の鉄道建設が本格的にスタートすることになった。

なぜ、東京-高崎間の路線が必要とされたのかといえば、当時日本の最大の輸出品だった生糸と絹織物が関係している。これらを集積地の北関東から輸出港である横浜港まで運ぶために、大量輸送に適した鉄道が必要だったのだ。

当時の明治政府は欧米列強に対抗するための富国強兵政策をとっており、武器や兵器を外国から購入するには、日本特産の生糸、絹織物を輸出して大量の外貨を稼ぐ必要があった。高崎は北関東一円の生糸と絹織物の集積地であり、それらの輸出品を鉄道で東京まで運ぶことができれば、あとは新橋経由で開港場の横浜まで運び込めるからだ。

この、東京-高崎間の鉄道建設を担ったのが日本鉄道だった。日本鉄道は設立の経緯からして半官半民的な会社であり、経営面で政府から優遇されたほか、鉄道技師を官営鉄道から借りることもあったようだ。

だが、東京-高崎間で着工されるはずだった鉄道建設は、実際には上野-高崎間に変更される。上野-東京間には神田や日本橋など、当時最も人口密度の高かった地域が含まれていて、鉄道用地を確保するのが困難だったからだ。そこで、当初計画されていた東京-高崎間の鉄道路線は、まず上野-高崎間で1884(明治17)年5月に営業を開始する。

問題は、上野-東京間をどうつなぐか。そこで考え出されたのが、人口密集地の神田・日本橋を迂回するため、上野より北側から線路を西に延ばし、当時人口が少なかった武蔵野台地東側の縁に沿って線路を通す案だった。最終的には、上野の北側の赤羽から線路を分岐させて西に延ばし、板橋、新宿、渋谷を回って品川に結ぶ路線が決定される。

山手線の原型01

これが日本鉄道品川線と呼ばれる路線で、冒頭で紹介したとおり、1885(明治18)年3月1日に開業。こうして、北関東で産出される生糸や絹織物は鉄道による貨物輸送により、高崎-赤羽-品川-横浜という経路で開港場まで運ぶルートが完成した。

ちなみに、この赤羽からぐるりと西側に回る線は、1906(明治39)年に日本鉄道が国有化されて以降もそのまま運用され、今日のJR山手線、JR赤羽線(埼京線)へと引き継がれている。

というわけで、新宿駅はそもそも北関東の生糸や絹織物を横浜まで運ぶ貨物線の途中駅として誕生したのだった。

開業当初は日本鉄道の貨物駅として栄える

1885年に誕生した日本鉄道新宿駅の駅舎は、もともと内藤新宿として栄えた宿場町から離れた、人通りもまばらな場所につくられた。開業13年後の1898(明治31)年になっても、駅構内でキツネが列車に轢かれたという記録も残っているそうだから、よほど辺鄙な場所だったのだろう。

その駅舎は、現在のJR新宿駅東口付近、ちょうどルミネエストが建っているあたりにつくられた。内藤新宿の宿場は新宿御苑の北側、現在の四谷四丁目交差点から伊勢丹新宿店くらいまでに連なっていたので、駅舎は盛り場から200〜300m西側につくられたことになる。駅舎は小さな木造で、駅前には茶屋があるだけ。改札口は1カ所。プラットホームは2つで、改札口に面して片面ホーム、線路を挟んだ向こう側に両面ホームがある「2面3線」という構造だった。

駅には旅客列車と貨物列車が停車したが、旅客列車は2両編成で1日わずか3往復。乗降客は1日平均36人で、多い日でも50人前後。雨などの悪天候時は0人という日もあったらしい。この駅が、後に1日360万人という世界一の乗降人員数を誇ることになるのだから、歴史というのはわからないものだ。

開業当時の新宿駅は、貨物駅としての役割のほうが大きかった。改札口に直結した片面ホームの南側(甲州街道側)延長線上に貨物ホームがつくられ、その付近には後に問屋や倉庫が立ち並んでいく。現在のタカシマヤタイムズスクエアのあたりだ。

甲武鉄道が開業し日本鉄道との乗り換え駅に

現在の新宿駅は、後に山手線、埼京線となる日本鉄道品川線の駅として開業したが、その4年後の1889(明治22)年、もうひとつの路線が開業する。後にJR中央線となる、私鉄の「甲武鉄道」だ。これにより、新宿駅は日本鉄道と甲武鉄道の乗り換え駅となった。言い換えれば、後のJR山手線とJR中央線の乗り換え駅ともなったわけだ。

甲武鉄道はもともと、新宿-羽村(現、東京都羽村市)間に馬車鉄道(馬が線路上の客車や貨車を牽引して走る鉄道)を敷設するために設立された会社だった。当初、玉川上水を利用して多摩地方で収穫された農産物を東京市内に運ぶ舟運業を営んでいたようだが、玉川上水の水質悪化が問題となり、業務を続けることができなくなった。

そこで、新宿-羽村間を馬車鉄道でつなぐ甲武馬車鉄道としての計画を進めたものの、玉川上水の堤防沿いに線路を敷くことは認められなかったため、1886(明治19)年11月に新宿-八王子間で鉄道の敷設免許を受けることになった。馬ではなく、蒸気機関車が牽引する鉄道としての免許だ。

1889年4月、まず新宿-立川間が開業する。新宿-八王子間の全線開通は同年8月だが、4月に立川までを先行開業したのは、江戸時代から有名だった小金井堤(玉川上水の両岸)の「小金井桜」の開花時期に合わせて、東京市内から花見客を集客したいという狙いがあったからだという。

ちなみに、甲武鉄道の停車駅は新宿、中野、境(現在の武蔵境)、国分寺、立川、八王子で、1891(明治24)年には、中野-境間に荻窪駅が追加された。だが、この甲武鉄道もまた、旅客より貨物が主体の路線となった。郊外から東京市内に運ばれたのは、多摩地方の薪炭、八王子周辺の絹織物、青梅地区の石灰石など。一方、旅客輸送ではなかなか乗客数が伸びなかった。

その理由のひとつに挙げられるのが、当時の旅客運賃の高額さだ。明治中期ごろの鉄道の乗車運賃は下等が1マイル1銭、中等が1マイル2銭、上等が1マイル3銭で計算されていて、新宿-立川間の下等運賃22銭は今日の貨幣価値で5000円前後、上等運賃66銭は1万5000円前後に相当する。今日の新宿-立川間の普通運賃(IC)は473円だから、当時の運賃はやはり高すぎるといえるだろう。

その後、甲武鉄道は1894(明治27)年に新宿から牛込駅(現在の飯田橋駅のやや西側)まで延び、さらに翌1895(明治28)年には飯田町駅(現在の飯田橋駅のやや東側)まで延伸する。こうして、現在の中央線としての骨格が確実に形づくられていった。

1904(明治37)年8月には、路面電車の東京市街鉄道(後の都電)に対抗するために、蒸気機関車による牽引をやめて電車による旅客列車運転を開始。鉄道専用軌道を走る日本初の電車となった。同年12月には飯田町駅から御茶ノ水駅まで電車線が延伸、開業する。また、これらの路線は区間ごとに段階的に複線化していった。

一方、以前から新宿駅を走っていた日本鉄道品川線も延伸する。1903(明治36)年4月には田端駅と池袋駅を結ぶ短絡線が開業し、上野-田端-池袋-新宿-品川-新橋で1日8往復の旅客列車が運転を始め、翌年には新宿-池袋間が、翌々年には新宿-渋谷間が複線化される。

山手線の原型02

その後、明治政府は日清・日露戦争を契機に挙国一致体制を重視するようになり、1906(明治39)年、鉄道国有法を公布。日本鉄道と甲武鉄道はともに国有化された。こうして新宿駅は国有鉄道の駅となる。

つまり、東京都内の主要都市を巡る環状線である山手線と、東京を東西に結ぶ大動脈である中央線の乗り換え駅になれたことが、のちに新宿駅が一日の乗客数でギネス記録を達成するまでに成長できた理由だろう。

 

PROFILE
市川宏雄

明治大学名誉教授。東京の本郷に1947年に生まれ育つ。早稲田大学理工学部建築学科、同大学院修士課程、博士課程(都市計画)を経て、カナダ政府留学生として、カナダ都市計画の権威であるウォータールー大学大学院博士課程(都市地域計画)を修了(Ph.D.)。一級建築士でもある。ODAのシンクタンク(財)国際開発センターなどを経て、富士総合研究所(現、みずほ情報総研)主席研究員の後、現職。日本と東京のこれからについて語るために国内、海外で幅広く活動する他、東京の研究をライフワークとして30年以上にわたり継続している。『東京一極集中が日本を救う』(ディスカヴァー携書)、『東京2025ポスト五輪の都市戦略』(東洋経済新報社)、『山手線に新駅ができる本当の理由』(KADOKAWAメディアファクトリー新書)など著書多数。NHK「特報・首都圏」、日本テレビ系「スッキリ」、TBSテレビ系「ひるおび」、テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」などテレビ出演多数。