今の日本人にはオリンピックより『堕落論』が必要なワケ【佐藤優】

佐藤優

数年前に想像していたのとは、まったく違う形で東京オリンピックを迎えることになった日本。私たちはこの一大イベントをどのようにとらえればいいのでしょうか? 作家の佐藤優さんは、坂口安吾の『堕落論』がヒントになると言います。世間の潮流や雰囲気に流されず、リアルに物事を見極める力の必要性について教えてくれました。

私がオリンピックを見ない理由

私はオリンピックやサッカーのワールドカップなどのスポーツイベントにほとんど興味がありません。基本的にスポーツが苦手だということもあるでしょう。しかし、感情的に日本を応援するマスコミや観衆と、少なからず温度差があることも理由の一つであるようです。

もちろん、私自身には愛国心や国に対する気持ちもあります。何といっても、外務省で日本の国益のために他国と渡り合い、尽くしてきたのですから。それに、アスリートたちの超人的な能力や努力はリスペクトしています。

ただし、テレビを見て日本選手を応援し、メダルの数や色にこだわることはありません。たしかに、スポーツや芸能には、私たちが日常では味わうことのできない興奮やカタルシスを得られるという役割があります。

ただ、あまりにそれに傾倒してしまいたくはない。スポーツで不自然なくらいに熱狂するのは、普段得られない達成感やカタルシスをアスリートに託して昇華しようとしているから、とも言えます。掲揚される日の丸を見て国歌を聞きながら、あたかも自分が強くなったかのような、何者かになったかのような錯覚に陥ってしまう。

強くなりたい、勝ちたいという願望は誰にも多かれ少なかれあります。アスリートたちはこの気持ちが向上心になり、自分を肉体的にも精神的にも鍛えて強くなっていきます。ただし、他人が行うスポーツや勝負ごとに自分を重ねてカタルシスを得ようとは思いません。

こうしたことは、実は私たちの生活のさまざまな場面で、無意識に行われているのだと思います。

『堕落論』は生き抜くことへの賛歌

それに対して、弱くて脆い自分、ダメな自分を否定することなく、本当の自分の姿を見極めることこそが救いとなる、と説いたのが坂口安吾の『堕落論』(集英社文庫)です。

『堕落論』が雑誌「新潮」に発表されたのは1946年4月。敗戦で社会が混乱し、価値観が大きく変わった時代です。誰もが生き抜くために必死でした。

お国のために命を捧げる覚悟を持っていた特攻隊の若者が闇屋や愚連隊になったり、銃後を守り貞操を誓ったはずの健気な婦人たちが娼婦に堕ちたり……。まさに道義退廃、荒れ果てた日本と日本人の将来に暗然としていた時代でした。

『堕落論』はそんな人々の迷いや嘆きを一掃するかのように、「人間は変わりはしない。ただ人間に戻ってきたのだ」と、力強い言葉で現状を肯定します。

生き抜くことはけっしてきれいごとだけでは済まされません。戦後の混乱で食うことに困れば、手段を選ばず稼がなければならない。ときには人を騙したり、ものを盗んだりすることもあるでしょう。

今の私たちが罪を犯さず行儀よく生きているのは、もしかしたら、たまたま不自由のない生活が送れているからなのかもしれません。

「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない」

『堕落論』というと何やら退廃的に聞こえますが、実は逆。この作品は敗戦の混乱で自信を失い、自己を見失いがちになっていた当時の日本人へのエールであり、生き抜くことへの賛歌なのです。

「人間だから堕ちる」の真意

ただし、「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ」と安吾は述べています。戦争や敗戦といった極限状態でなくても人は堕ちる。普遍性のあるテーマだからこそ、当時の日本人に熱狂的に支持されただけでなく、今日まで作品としての価値を保っているのでしょう。

それにしても「生きているから堕ちる」というのはどういうことなのか。この言葉だけではピンとこない人も多いかもしれません。そこで、現代の身近な問題に置き換えて考えてみましょう。

たとえば少し前によく騒がれた不倫の問題です。結婚して家庭を築きながら、別の異性と関係を持ってしまう。道義的にはいけないこととされていますが、私たちはその気持ちや衝動を完全に抑えることができるでしょうか。

魅力的な異性を前にすると誰でもテンションが上がるものです。それが不倫という身を焼くような業火につながるかは別にしても、その火種は誰の心にもくすぶっているはず。でも、それこそが生物として生きていることの証であり、生命力そのものでもある。

実は安吾の『堕落論』を待つまでもなく、キリスト教にとって「堕落」は身近な概念です。人間は、アダムとイヴが楽園のリンゴを食べて堕落したところから始まったとするのですから。

人間とはそもそも堕落した存在であり、罪を犯してしまう存在なのです。仏教もまた煩悩という言葉で、人間の罪深さや弱さを明示しています。宗教的な見地からいえば、「生きているから堕ちる」というのは、むしろ当然のことです。

ダメな自分、弱い自分を受け入れる。

堕落というと何やら大層な話に聞こえるとしたら、「ダメさ」という言葉に置き換えてみるとどうでしょう。目先の欲望や快楽に流されてしまうのはよくあることです。ついお酒を飲みすぎたりギャンブルや風俗にハマったり……。

仕事でも、面倒なことをつい先延ばしにして、あとで大変な目にあうこともあります。そんなダメさや弱さは、誰もが多少なりとも持ち合わせているでしょう。

その弱さやダメさとどう向き合うかが課題となりますが、自分はダメ人間ではない、ひとかどの人物だと思いたいのが人情でしょう。自分は堕ちたくない。負けたくない。そのために一生懸命勉強していい大学に入り、一流企業に入る。資格をとったり、稽古事をはじめたり、人によっては格闘技やジムで体を鍛えてみたり──。

一見前向きで建設的ですが、たんに自我や自己と向き合うことを避け、ごまかすために社会的な隠れ蓑を身につけているだけかもしれません。それによって安心し、自己満足しているだけなのかもしれないのです。

戦後日本人の最大の欺瞞とは

大事なのはリアルに物事を見極める力です。『堕落論』を読むと、本当の自分をしっかり見つめ直せ、自分の弱さやダメさと向き合う強さを持てと、叱咤激励されているかのように感じます。そのためにはありがちな価値観や仕組みの中で自分自身をごまかすのではなく、しっかりと堕ちるときには堕ちること。

日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順のほかに、真に人間を救い得る便利な近道がありうるだろうか。

ところが現実はどうだったか。日本は敗戦を終戦と言い換え、負けをごまかそうとしたところから戦後が始まったといえます。安吾が最も忌み嫌う「自己欺瞞」です。

日本が右肩上がりのころは勢いがあり、こうしたことも明らかになってはいませんでしたが、欺瞞のツケは今になってさまざまなところに噴出しています。少子高齢化、財政破綻、経済の衰退……。

堕ちゆく国家を見極める冷静さと強さがないと、オリンピックなどのスポーツイベントでごまかされてしまいます。

今こそ必要な「堕落」と「落伍」

「堕落」という言葉自体、今の人にははなじみがない言葉かもしれませんが、戦前は今よりもっと身近な概念でした。デカダンスと同じような用法や意味で、むしろ若者の流行りの言葉でもありました。

少し世をすねたように、斜に構えて世間の価値を疑ってかかる。わざと世の中から外れた生き方をする。「デカダン気どり」などという言葉もあったくらいで、今よりずっとポピュラーな概念だったのです。

そんな言葉はもはや死語になってしまいました。最近の高校生はほとんど授業もサボらなければ、街で友達同士で時間を潰すことも少ないと聞きます。社会の目が厳しくなって、学校側も指導を強化していること、優良企業への就職は常に困難で、大学受験から就職活動へという一連の流れの中で、学生たちにも時間を無駄にしたくない、余計なことをしたくないという気持ちが強いのかもしれません。

人生の階段から足を踏み外す、競争に負けて一生大変な目にあったり、不幸になってしまう―。右肩下がりの時代、そんな強迫観念が若い人にあるのかもしれません。

そのような環境では、他者を見下すことでしか自分を確認できなくなります。そうなると、心の通った友人や仲間をつくることも難しくなるでしょう。それは人生を長い目で見たとき、大きな損失だと思います。

「堕落」という概念は、そんな閉塞を打ち破る力を秘めているように感じます。世の中の価値観や基準から外れ、自我を見つめ直すことで、自分にとって最も大切なものを見極められるからです。それは、与えられた価値や基準を相対化することにもつながるでしょう。物事を相対化するとは、すなわち視野が広がるということです。

安易に「落伍しろ」「堕落しろ」とは言えませんが、このような本を通じて、これまでとはまったく違った見方を知る。そのことだけでも、得るもの、変わるものがあるはずです。

 

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佐藤優

PROFILE
佐藤優

1960年東京都生まれ。85年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務を経て、95年、同省国際情報局分析第一課主任分析官。2002年、背任及び偽計業務妨害容疑で逮捕。09年、背任及び偽計業務妨害の有罪確定で外務省を失職。13年、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。捜査の内幕を描いた『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)が05年に出版されると大反響を呼ぶ。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞