『三国志』を生き残った「呉」が中国全土を制覇できなかった理由

中国の城壁

劉備玄徳、諸葛亮孔明、関羽雲長、張飛翼徳、さらには曹操、夏侯惇、仲達、孫権、周瑜、呂布などなど、『三国志』ファンなら、このうちどの名前を聞いてもワクワクするに違いない。ご存じのように、われわれ日本人が三国志というと、明(一四世紀後半〜一七世紀半ば)の小説家・羅貫中が読み物に仕立て直した『三国志演義』を指すことが多い。この記事では、この三国志演義から離れて、三国時代の終焉──それも三国鼎立の一翼を担っていた呉の滅亡について史実をもとに語っていく。

 

三国時代百年の幕を下ろした晋

三国時代の三国とは言うまでもなく、魏、呉、蜀を指す。まず、蜀が魏によって滅ぼされ、その後、魏の権臣の一人にすぎなかった司馬懿の子孫が魏を崩壊させて晋(西晋)を建国する。唯一残った呉はやがてこの晋の侵略を受けて滅ぶ。

こうして中国は新興国・晋によって統一され、黄巾の乱から百年続いた三国時代は幕を下ろしたのだった。

そこで呉の滅亡についてだが、偉大な孫権の孫にあたる孫皓元宗の代に呉は滅んでいる。孫皓は即位した当初、善政を布いたことから、孫権の兄で、早世した孫策(小覇王)の再来と称されたが、やがて稀代の暴君へと変貌を遂げる。このことが呉の滅亡を早めたとされている。一体、孫皓に何があったのだろうか。

孫氏

呉では孫権の死後、孫亮、孫休と続いたが、孫休が永安七年(二六四年)七月に急死したことから、四代目の皇帝候補選びが始まる。前年に蜀が魏によって滅ぼされていたため、危機感を抱いた呉ではすでに皇太子がいたにもかかわらず、一族の中にこの国難を乗り切れる優秀な人材はいないものかと探し回り、孫皓に白羽の矢を立てたのだった。こうして孫皓は二十三歳で即位した。

玉座について、孫皓がまず最初に行ったのが、すでに鬼籍に入っている父の名誉回復だった。実は、孫皓の父孫和は孫権の第三子でいったんは皇太子にも立てられたが、後継をめぐって権力闘争が起こり、それに敗れ二十九歳の若さで自害させられていた。

孫皓は無念の涙を飲んで死んだ父に文皇帝と諡し、生母の何氏も太后とした。父母を葬ったところには二百家余りも移住させて村をつくり、墓守を命じた。さらに、慰霊のための廟を建てて七日間の祭礼を執り行い、孫皓自身、その前で連日のように叩頭き、むせび泣いたという。

こうした逸話からもわかるように、孫皓という人物は、確かに頭はよかったが、感情の起伏はかなり激しかったようである。即位した当初は、国庫を開いて貧民を救済したり宮女を解放して独身者に娶らせたりしている。

しかし、こうした名君ぶりを見せたのはほんの最初だけで、やがて孫皓は、粗暴で残忍、酒色を好み、小心で猜疑心が強いという本性を表しはじめる。

エスカレートする残忍さ

孫皓は即位したその年に早くも、丞相の濮陽興と左将軍の張布を誅殺している。これは、孫皓の本性を見抜いた二人が、皇帝に推挙したことを後悔している、と話し合っているのを盗み聞きした者がいて、孫皓に注進に及んだからであった。

こうした孫皓の粗暴さは年々エスカレートし、些細な罪で、あるいはたんに気に入らないという理由で刑死に遭う者が続出した。なかでもよく知られているのが、次の逸話だ。

孫皓の愛妾の一人が、人を唆して市場で強盗を働かせるという事件があった。すると警備をしていた陳声という者がその強盗を捕らえ、法に則り処刑した。妾がそのことを孫皓に告げ口したところ、怒った孫皓は陳声を捕らえさせ、真っ赤に焼けた鋸で陳声の首を切り落とさせたという。なんとも残酷で理不尽な話である。

刑罰で、人の顔を剥いだり目玉をえぐったりすることも好んで行わせた。これはのちに孫皓が晋帝の司馬炎に降伏したときの話だが、司馬炎が王済という者と碁を打っていると、たまたま孫皓が通りかかった。司馬炎が何気ない口調で、

「きみはなぜ人の顔を剥いだりするのかね」と尋ねたところ、孫皓は、王済が碁盤の下で足をだらしなく投げ出しているのを見て、「主君に無礼を働く者があれば、誰であろうと剥ぎます」と返答したため、王済はあわてて足を引っ込めたという。

遷都したにも関わらず一年後に戻す

しかし興味深いのは、孫皓がこうした残忍さを発揮する相手は、文官や身分の低い者、女などに限られることだ。軍事権を持った者から、かなり手厳しい諫言をくらったという事実があるのに、それに対して意趣返しはしていない。

この孫皓の小心さを如実に物語るのが、若いころから占いを信じていたという事実である。これは、まだ十代半ばのころ、人相見から「末は高貴な人になる相である」と言われ、喜んだことがきっかけになっている。

孫皓はまた、帝位についた翌年(甘露元年=二六五年)九月、首都をそれまでの建業(南京)から武昌(武漢)に移し、一年後の十二月にまた建業に戻すという馬鹿げたことをやっている。これはお抱えの占い師の言にしたがって行ったことだった。当然、そのために大規模な土木工事や建築工事を国民に強いており、国中から怨嗟の声が上がったという。

晋に攻め込まれたときも、占いが関与していた。孫皓が即位して十六年目の天紀四年(二八〇年)の春に呉は滅ぶのだが、その前年に長江の上流から建業のほうに大小の木材が連日のように流れてくるということがあった。これは晋が上流で軍船を建造していることは誰の目にも明らかだった。

呉の武官たちは色めき立ってそのことを孫皓に報告するが、孫皓は平然として、「気にするな。占いによると来年は幸運な年になるそうじゃ」そう言って、迎撃のための準備を命じなかったという。

晋軍、破竹の勢いで建業に迫る

やがて呉の武官たちが心配したように、長江の上流から晋の水陸両軍が建業目指して雪崩の如く侵攻してきた。呉の防衛線は次々に打ち破られ、呉軍は撤退を重ねた。晋軍にすれば、それがまるで竹の節を割るような簡単さに思えたため、のちに「破竹の勢い」という言葉がここから生まれたとされている。

それはそうだ、暴力的で無能な主君を頂いたばかりに呉軍はすっかり戦意を失っていたのである。これでは勝てる道理がない。

幼少期に父を殺されたことが原因の一端であろうが、孫皓という人物はかなり屈折した性格の持ち主であった。普段、人と話をするときでも顔を直視されることを極端に嫌ったと言われている。本当は小心な自分をさらけ出すことが怖いため、あえて暴虐な君主を装った面もあったのだろう。

晋に降伏した孫皓はのちに洛陽に送られ、太康五年(二八四年)十二月、四十二歳で亡くなった。帝位にあったころ、孫皓は自分の将来を占わせたことがあった。そのとき、「駕籠に乗って洛陽に入るのが見える」と言われ、孫皓は大いに喜んだという。晋を征服した自分の姿をそこに見ていたのだ。しかし、実際は敗軍の大将として護送されようとは、このときは想像もしなかったに違いない。

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。