日本人がキリスト教を真に理解する最大の難所「原罪」のとらえ方

キリスト

最初の人間であるアダムとエバが、楽園(エデンの園)において、神から「決して食べてはならない」と言われた「善悪の知識の木の実」を食べたことから、人間の原罪は始まるとされています。この原罪はキリスト教において重要な要素であり、これを正しく認識することがキリスト教を真に理解することにつながります。元外交官で、キリスト教者としても著名な佐藤優さんに解説してもらいましょう。

人間は放っておけば悪いことをしてしまう

神の言いつけを破り、その木の実を食べて「神のように善悪を知るものとなる力」を得ようとしたアダムとエバ。そして、神に「食べたのか」と問いただされたとき、アダムは「女が取って与えたので食べました」と言い、エバは「蛇がだましたので食べてしまいました」と言って、責任転嫁をしたり嘘をついたりします。これが、神の逆鱗に触れました。

アダムは、神にこのように言われます。

「お前は女の声に従い 取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。(中略)お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3.17-19)

エデンの園では、アダムとエバは食べ物に苦労することなく、また、死ぬこともありませんでした。

ところが、その楽園から追放されることで、苦労して食べ物を得ねばならないことになり、命に限りが設けられることになりました。このことがわたしたち人類に与えられた「原罪」の始まりです。

それと同時に、欲望を我慢できなかったり、神のような知恵をつけたいという思い上がりだったり、立場がまずくなると嘘をついて他人に責任転嫁したりといった性質が、アダムとエバの末裔であるわたしたち人間には、しっかりと引き継がれていくことになります。

わたしたちは、自分の保身のために、あるいは自分の利益や欲求のために、嘘をつき、人をごまかし、責任転嫁をします。

大人であれ子どもであれ、何かしら嘘をついたことのない人はいないでしょう。自分の欲望を達成するために、ときには人をだましたり利用したりすることもありますし、誘惑に負けて、良くないとわかっていても、悪いことに手を出してしまうこともあります。

人間はこのように、放っておけば、悪のほうに傾いてしまう性質があるのです。そしてこの性質は、アダムとエバの時代から、ずっと続いているということです。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ローマの信徒への手紙7.18-19)

イエス・キリストに感化され、善を実践していたいと、こころから願ったのがキリスト教伝道者のパウロですが、それでもやはり「自分が望んでいない悪」を行ってしまう。この言葉はそんな彼の、絶望的な告白です。敬虔な信徒であるパウロでさえそうなのですから、まして一般の人間に、どれだけ悪から逃れる力があるでしょうか。

悪をやめない人間を天からの火で焼き尽くす

アダムとエバから始まった人間の悪の行いは、常に神の怒りを買ってきました。彼らの子どものカインは、神に祝福された弟のアベルに嫉妬し、アベルを殺してしまいます。怒った神は、カインをその土地から追放し、カインは放浪の身となりました。

アダムの末裔であるノアの時代には、人の悪がそこかしこではびこるようになりました。創造主である神は、自分が人間をつくったことを後悔し、大洪水ですべて滅ぼすことに決めます。

ただし、信心深いノアは助けることにしました。神の言葉のとおりにノアは大きな箱舟をつくり、家族と、さまざまなつがいの動物たちとともに乗り込みます。それから40日40夜の雨が続くと大洪水が起き、箱舟に乗ったノアと、その家族と動物たち以外、命あるもはすべて全滅してしまいます。

今度はそのノアの子孫たちが、天にも届くかという高い塔、バベルの塔の建設を始めます。それは神に肩を並べようとする、人間の傲慢さの表れでした。「みんな一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ」と考えた神は、それまで一つだった人間の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしてしまいました。そして神によって全地に散らされた人々は、塔の建設を断念しました。

さらに時代が下ると、ソドムとゴモラの街の話が出てきます。みだらな行為にふけり、暴力も横行し、自堕落な暮らしをしていたこの街の人々に怒った神は、硫黄の火を天から降らせて焼き尽くし、全滅させてしまいました。

このように、人間は長い歴史のなかで、いつも神のことを忘れ、神の期待を裏切るように、悪と堕落とを繰り返してきたのです。聖書を読むと、人間の罪というものが身に迫ってきます。

「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」(ローマの信徒への手紙1.28-31)

この世の終わりに神の国に行く者、滅びる者に分けられる

しかし、悪の行いと、その原因となる原罪とは、人間が自分の力でぬぐい去ることはできません。

イエス・キリストの受難、イエスが血を流し苦しみの果てに命を落としたその犠牲によってはじめて、人間の罪があがなわれるというのがキリスト教の立場です。神の子であり人の子であるイエスだけが、人間の罪をつぐなってくれるのです。

では、イエス・キリストによる罪のあがないによって、わたしたちは全員、神の国に行けるのでしょうか?

残念ながらそうではありません。イエス・キリストによってわたしたちの罪があがなわれたことで、断絶状態だった神との関係は修復されました。そして人の子イエスの生き方にならい、神を信じることによって、神の国に行くことができる可能性が生まれます。

しかしあくまでも可能性ということであって、決定ではありません。神の国に行けるかどうかは、時を経て「最後の審判」の日がやってきたとき、神の裁きによって決まるのです。

イエス・キリストは十字架刑で死んだあと、3日後に復活し、弟子たちの前に姿を現します。そして40日間、弟子たちにさまざまなメッセージを伝えたのち、「私はすぐに来る」と言い残して、天に昇って行きました。イエスは、再びこの世界にやってくると約束したのです。

それは、神による「最後の審判」が行われるためです。世界の歴史が終わりを迎え、生きているものもすでに死んでしまったものも、一度すべて神の前に集められ、神によって裁きが行われます。そして、神の国に行く者と、滅びる者とに分けられるのです。

そして「そのとき」、世界は混乱と苦しみの世界となっているとイエスは言うのです。

「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」(マタイによる福音書24.6-8)

このような終末の世界に、イエス・キリストが、天の雲に乗って再び現れます。

「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マタイによる福音書24.29-31)

人の子、というのは、イエス・キリストのことです。最後の審判のときには、死者も再び神の力によって復活します。そして生きている者と合わせて、すべての人たちが審判を受けることになります。そして、神に選ばれた者は、神の国へ行き、永遠の命を得ることになります。

自分のなかの「悪」を認めると強く生きられる

人間の本性は善であるというのが、「性善説」です。一方、本性が悪であるというのが、「性悪説」です。

キリスト教はこれまで見てきたように、明らかに性悪説の立場に立っています。放っておけば人間は間違いを犯し、悪へと導かれるものという考え方です。

ですから、キリスト教では、近代の思想の根本にある「ヒューマニズム(人間中心主義)」を良いものとはしていません。本性が「悪」である人間を中心にして世界をつくっても、決して良い世の中にはならないと考えるからです。

あるいは「自由主義」というものも信用していません。人間が自由に活動したところで、必ずその結果は悪に染まったもの、悪に流されたものにしかならない、と考えているからです。

だからキリスト教徒は、ヒューマニズムと自由主義が主流になった近代以降の時代は、決して良い時代ではなく、いよいよ終末に近づいた「悪の時代」と考えています。

キリスト教徒ではない読者にとっては、原罪の話も、悪の話も、なんだかピンとこないかもしれませんね。まして自分という人間が「悪」であり、「原罪」を持っているとなると、自分を否定するような気持ちになり、自信が持てなくなるかもしれません。

しかしわたしから言わせると、それは逆です。

自分のなかの原罪や悪を認め、絶対的な神とその恩寵を信じるということは、自己否定ではなくて「自己確信」なのです。

どういうことかというと、イエス・キリストにならい、その生き方の規範とすることで、「目に見えないもの」とつながっている確信が持てるということです。それが、自己確信です。そうすると、さまざまな逆境や困難も「神様からの試練」としてとらえられるし、そういうときに、大いなるものの存在の力を感じることができる。これは、人生を生きていく上で、とても強い力になります。

自分の悪を認めず、自由意志にまかせ、自分たちが神と同じような全能の存在だと考えるとき、人間は間違いなく、「孤独」と「虚無」のなかに落ち込んでしまいます。実際、近代以降の多くのこころの病は、本質的にこの「孤独」と「虚無」とにかかわっているのです。

いま世の中は混迷の時代を迎え、さまざまな争いや断絶が起きています。わたしたちが、人間の持つ「悪」についてしっかりと向き合うことが、とても大事な時代だと思います。

世の中を少しでも良いもの、明るいものにするために、まずはわたしたちは、「自分自身が持っている悪」を認識する必要がある。人間の悪とずっと向き合ってきたキリスト教には、これからの時代を良くするための大きなヒントがあると、わたしは考えています。

 

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佐藤優

PROFILE
佐藤優

1960年東京都生まれ。85年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務を経て、95年、同省国際情報局分析第一課主任分析官。2002年、背任及び偽計業務妨害容疑で逮捕。09年、背任及び偽計業務妨害の有罪確定で外務省を失職。13年、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。捜査の内幕を描いた『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)が05年に出版されると大反響を呼ぶ。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞