人生に迷ったときに読み返したい「聖書の名言」5つ【佐藤優】

聖書

聖書はこれまで発行されたなかでもっとも発行部数が多く、もっとも多くの言語に翻訳された書物とされています。それだけに、そこには今の私たちの状況にピッタリ当てはまる箴言やアドバイスが多数あります。作家でキリスト教者の佐藤優さんがおすすめする「聖書の名言」を5つご紹介。人生の一つの道しるべとして役立てられるかもしれません。

求めれば与えられる

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(マタイによる福音書7.7)

「求めること」「探すこと」「門を叩くこと」は、いずれも信仰を指します。真剣に神を求め、神を探し、その教えをこおうと門を叩けば、それは実現するということです。

キリスト教は「原罪」を説く宗教ですから、「人間はそもそも罪深い」という立場です。それゆえ、悲観的な宗教かというと、そうではありません。

なぜなら罪を悔い改め、まっすぐに信仰するなら、神の恩寵があると説くからです。
「ルカによる福音書」の15章に、イエスの「放蕩息子」のたとえ話があります。

ある人に息子が二人いました。弟のほうが「お父さん、わたしがもらうことになっている財産を分けてください」というので、その人は、兄と弟に半分ずつ分けてやりました。ところが弟のほうは、財産を全部お金に換えてしまうと、すぐに遠くに旅に出てしまいました。

弟は旅先で、お金を使って、放蕩の限りを尽くしました。そしてお金をすべて使い果たしたときに、飢饉が起こって、飢え死にしそうになります。困り果てた弟は、父親のもとに帰りました。帰るなり父親に向かって、「わたしは罪を犯しました。もう息子と言われる資格はありません」と謝りました。

叱られるかと思ったら、父親は、大喜びして弟に接吻し、良い服を着させ指輪をつけさせて、子牛を焼いて、音楽や踊りの祝宴会を始めました。兄のほうはこれを見て、面白くありません。自分は家を出ずに真面目に父親に仕えて、言いつけに背いたこともない。なのに自分は、こんな風に祝ってもらったことはないではないですか、と父親を責めます。

父親は、兄に向かって言います。

「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(ルカによる福音書15.31-32)

この弟、放蕩息子は、わたしたち「罪深い人間」のことです。そして、放蕩息子を喜んで祝った父親は、「神」のことです。

放蕩息子が「罪を犯しました」と悔い改めたように、わたしたち人間も真摯に悔い改めるならば、神は、喜んで「祝宴」を開いてくれるのです。放蕩息子の父親のように。キリスト教の神は、わたしたちが「求めるならば」、いつでもわたしたちを祝福したいと願っています。

財産や評価はむなしいもの

あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。(マタイによる福音書6.19-20)

ここでいう「富」とは、お金や財産などの物質的なものだけではありません。ここでイエスが言っている「富」は、比喩的なものです。当時のユダヤ教の権威者たちは、自分たちの信仰心を誇り、民衆に見せつけるようにして、人々から賞賛を得ようとしていました。

イエスはそれも、地上に「富」を積むような行為だというのです。他人からの賞賛も、名誉も、この地上での価値観にしかすぎません。人間の評価などは不安定で、一時賞賛されていた人も、別の優れた業績をあげる人が現れれば、たちまち忘れ去られてしまいます。

人の評価など、「虫が食ったり、さび付いたりする」ように、むなしいものなのです。むなしい他人の賞賛や評価を求めることなく、「神による絶対的な評価」を気にかけて生きる大切さをイエスは説いています。神を中心に生きよ、ということです。

他人に評価されたり、賞賛されたりすることを求めているうちは、「富を天に積むこと」はできないのです。

劣った部分も、あなたの個性

神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 12.24-26)

身体には、手や足、頭や内臓や骨など、さまざまな部位があります。部位だけに注目すれば、大きい/小さい、強い/弱い、硬い/柔らかい、速い/遅いなど、さまざまな違いがあります。しかし、それらすべての部位が自分の役割をまっとうし、また、お互いに補いあうことで、身体は動くことができるのです。

これは、わたしたちの住む社会にも、そのまま当てはまることです。たとえば、体が小さい人がその俊敏さを生かしてアメリカのバスケット選手として活躍したり、口下手な人がその聞き上手を生かして営業マンとして成功したりしています。

あなたが「劣っている」と思っている自分の性質も、社会全体から見ると、とても必要とされている「素質」だったりするのです。つまりそれが、あなたの「個性」です。

キリスト教は、多様性を重んじます。人間の個性は、神から与えられたギフトなので、他者と比較して「自分には足りない」とひがんだり落ち込んだりするのは、良いことではありません。

むしろそれを自分にしかない個性として生かして、社会に貢献することが、神の意志にそうことでしょう。

汚い言葉が、こころを汚す

皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。(マルコによる福音書7.14-15)

イエスの弟子たちのなかに手を洗わないで食事をする者がいました。それを見て、ユダヤ教のファリサイ派と律法学者が、「どうして、昔の人の言い伝えを守らずに、汚い手で食事をするのですか」と、非難しました。ユダヤ教徒は昔から、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには身を清めてからでないと食事をしませんでした。

イエスは、これに対して言います。「体に入るもの」でなく「体から出てくるもの」が、人を汚すのだ、と。どういうことでしょうか。

「人から出てくるもの」とは、すなわち、「人間の言葉」です。人間は言葉によって、人を喜ばせることもできますが、人を傷つけ、悲しませ、怒らせ、陥れることもできます。正しく言葉を使うことを気をつけていても、余計なことを言ってしまったり、悪意を含んだことを言ってしまったりすることもあります。

つまり、汚い手で食事をすることが罪をつくるのではなく、「言葉で人を傷つけること」が罪をつくるのだ、とイエスは主張しています。自分が「汚れた言葉」を使わなかったか、ときどき振り返ってみることが大切です。

受けるよりも与える

主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。(使徒言行録20.35)

 これは第3章でも解説した、伝道者パウロの言葉です。パウロは、イエスが「受けるよりは与える方が幸いである」と言ったと述べていますが、福音書を探してみても、イエスがこのような発言をしたというところは見当たりません。とはいえこの教えは、イエスの教えの真髄、キリスト教の真髄のように感じます。

日本のことわざに、「情けは人のためならず」というものがあります。他人に親切にすれば、いつか自分に返ってくる、ということです。

他人に何かを与えられるような人間になるためには、それに値するものを自分が持っていなくてはなりません。パウロは、キリスト教徒はできるだけ努力して、他人に与えることができるものをつくり出すように言っています。そして、与えるものも、その能力もあるのに、サボっている人間を嫌います。

神が与えてくれたものを、われわれは神に返さなくてはなりません。それは神から受けたものを、隣人に対して与えることによって実現されるのです。

わたしは、国策捜査で逮捕され、512日間、東京拘置所に勾留されているとき、独房のなかで、何度も何度もこの箇所を繰り返し読みました。そして限られた残りの人生は、他者から「受けること」を考えるのではなく、他者に「与えること」を第一に考えて生きよう、と思いました。

そう考えた瞬間、世界がまるで異なって見えたことを、いまでも覚えています。

 

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佐藤優

PROFILE
佐藤優

1960年東京都生まれ。85年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務を経て、95年、同省国際情報局分析第一課主任分析官。2002年、背任及び偽計業務妨害容疑で逮捕。09年、背任及び偽計業務妨害の有罪確定で外務省を失職。13年、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。捜査の内幕を描いた『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)が05年に出版されると大反響を呼ぶ。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞