自信を失ったときに読み返したい「聖書の名言」5つ【佐藤優】

聖書

聖書はこれまで発行されたなかでもっとも発行部数が多く、もっとも多くの言語に翻訳された書物とされています。それだけに、そこには今の私たちの状況にピッタリ当てはまる箴言やアドバイスが多数あります。作家でキリスト教者の佐藤優さんがおすすめする「聖書の名言」を5つご紹介。人生の一つの道しるべとして役立てられるかもしれません。

「狭き門」のほうを選ぶ

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。(マタイによる福音書7.13-14)

人生というのは、選択の連続です。受験、就職、転職、独立…。人生において選択を余儀なくされることは何度もあります。

そんなとき、この言葉のように「広い門より狭き門」、つまりラクな道より険しい道、苦難の道を選ぶのが正しいと、わたしは考えています。

なぜなら人間は放っておけば、ラクなほう、ラクなほうへと逃げてしまいがちです。しかしそれでは、成長できません。

イエスはこの言葉によって、「神への信仰を持ち続けることがいかに難しいか」と伝えたかったと思いますが、わたしたちの人生においても道しるべになる言葉だと思います。

他人を裁いてはいけない

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。(マタイによる福音書7.1-2)

最近は、ウェブサイトやSNSでやたら「炎上」が起こります。タレントの謝罪会見でも、マスコミ記者たちが、まるで鬼の首でも取ったかのように、みんなで糾弾します。

「自分は悪くない。悪いのはアイツだ」──。自分のことを棚に上げて、誰かを一斉攻撃する傾向は、ネット社会になってから、ますます強まっているように感じます。

これまでもお話ししてきたように、キリスト教において、罪のない人間など一人もいません。キリスト教徒は、自分だって罪深いのだから、誰かの罪を責め立てることなどできないと考えます。「裁く」権利があるのは神だけであり、人間にはその権利はないと考えるのです。

「自分もあの人と同じように、〝罪〟を持っているのだ」と謙虚にとらえるなら、もう少し、他人に対して寛大になれるのではないでしょうか。

それとも、「女が与えたせいで食べた」「蛇がだましたせいで食べた」と責任転嫁したアダムやエバのように、人間はこの先もずっと、誰かに罪をなすりつけることをやめないのでしょうか。

他人の過ちは何度でも許す

ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイによる福音書18.21-22)

ユダヤ教では、神は人間の罪を、「同じものならば三回までは赦してくれる」と考えられていました。

あるとき弟子のペトロが、「仲間がもし罪を犯したら、自分は何回まで許してやるべきか」とイエスに聞きます。新約聖書の時代、7という数字はもっとも善い数字(絶対数)と考えられていたからでしょうか、ペトロは「7回までですか」と聞きます。

するとイエスは、「7の70倍まで許せ」というのです。これはもう、無限に許してあげなさいという意味で、とことんまでの寛容をすすめているのです。

なぜなら神は寛容であり、人間を何度でも許してくれるのだから、人間同士の関係においても、それを実践しなさいとイエスは主張するのです。

誰でも人生のなかで、人に迷惑をかけたり、人を不愉快にさせたり、人を傷つけたりしているはずです。自分でそれとは気づかずに、人に迷惑をかけていることもあるでしょう。それでもその多くは、許されてきました。

そうやって、みんなから許されて、いまの自分があると考える。

そうすると今度は、自分だけが他人の失敗や失礼を許さない、などということは道理に合いません。

自分が許されてきたように、他人も許してあげましょう。

知恵、力、地位を誇らない

神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 1.27-29)

頭のいい人、権力のある人、地位のある人は、この世の中では、「偉い人」と呼ばれ、人々の上に立ちます。政治家や官僚や一流企業のエリート会社員などがそうでしょう。

しかし、知恵、力、地位など、この世の価値は、「神の世界」ではまったく価値がありません。そして、神よりも賢く、神よりも力があり、神よりも偉いなどということはあり得ないのです。

ところが知恵、力、地位のある人は、そのようなものを誇り、まるで自分が全能の神であるかのごとく、人を利用したり、差別したり、虐待したりします。それが、この世に、悪がはびこる原因にもなります。

イエスの弟子たちをはじめ、当時の信者たちには、貧しく、能力も低く、自分は卑しいものだと思っている人がたくさんいました。

しかしそのように謙遜する人たち、地位や権力もお金もなく無力な人たちほど、神は、好んで選ばれるのです。

復讐は、神にまかせる

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙12.19-21)

「目には目を、歯には歯を」のような、やられたら同じ分だけやり返す同害報復は、古代バビロニア帝国で実施され、この伝統を、ユダヤ教も継承しました。放っておけば人間はその復讐心から、「目には、目と鼻を」「歯には、歯と耳を」くらいの報復を考え、過剰報復の連鎖は止まらなくなります。

ですからイエスは、「復讐」を全面的に禁止します。なぜならこの世界の支配者は「神」であり、人間が犯した罪に対する復讐についても、全面的に神にゆだねられるからです。

わたしたちは、ときに、「悪」と戦わなくてはならないときがあります。

そのときに、「やられたらやり返す」のやり方では、今後は自分が「悪」をなしてしまうことになります。悪に負けることなく、善をもって悪に打ち勝つことの大切さを、この言葉は教えています。

それからイエスの有名な言葉に、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイによる福音書5.39)というものがあります。誰かに打たれてもそれに屈せずに、左の頬を差し出す度胸を持って、「悪」に打ち勝ちなさいと言っているのです。

さらに「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5.44)という言葉もあります。

敵を愛するなんて、ふつうはなかなかできることではありませんが、それでもキリスト教徒は、憎しみではなく愛をもって敵と接することを、実践しようと努めるのです。

 

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佐藤優

PROFILE
佐藤優

1960年東京都生まれ。85年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務を経て、95年、同省国際情報局分析第一課主任分析官。2002年、背任及び偽計業務妨害容疑で逮捕。09年、背任及び偽計業務妨害の有罪確定で外務省を失職。13年、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。捜査の内幕を描いた『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)が05年に出版されると大反響を呼ぶ。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞