最後まで徳川に忠誠を尽くした彰義隊と渋沢栄一の知られざる接点

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上野恩賜公園内、西郷隆盛像の裏手に彰義隊を奉った墓がある

東京の上野公園(正式には上野恩賜公園)といえば愛くるしいパンダで有名だが、そんな平和の象徴ともいうべき場所で、一面焼け野原と化すほどの激しい戦争が今からおよそ百五十年前に繰り広げられていた。江戸から明治への移行期に起こった「上野戦争」である。戦ったのは、薩摩藩と長州藩を中心とする官軍(明治新政府軍)と、一方は「彰義隊」と呼ばれた旧幕府軍である。合戦の直前、官軍側の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟との会談によって、官軍による江戸総攻撃は取り止めとなったはずなのに、なぜ合戦は回避できなかったのだろうか。また、そこには渋沢栄一も少なからず関わっていたという。

勤皇思想が色濃い水戸家で育った徳川慶喜

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は、慶応四年(一八六八年)一月三日に勃発した「鳥羽・伏見の戦い」で官軍に敗れると、まだ形勢挽回の余地は十分あったにもかかわらず、わずかな供回りだけを引き連れ、大坂湾から軍艦開陽丸を利用してさっさと江戸に帰還してしまう。

江戸に到着したのは八日後の十一日のことである。これこそ日本合戦史上にも稀な総大将による敵前逃亡劇であった。

翌十二日、慶喜は江戸城に入る。このころすでに慶喜の胸中は官軍に降伏する方向に傾いていたとみられている。しかし、重臣を集め連日会議を開くが、交戦か不戦かの結論を出せないでいた。

主戦派の勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順らが、「箱根の山で迎え撃てば、絶対に勝てます」と盛んに説いたが、慶喜はついに首を縦に振らなかった。もともと勤皇思想が色濃い水戸家で生まれ育った人だけに、官軍(皇軍)を名乗る軍隊に弓を引くようなことはしたくない、と考えていたのである。

そのうち、官軍が東海道、東山道、北陸道の三方面から江戸に押し寄せてくるという噂が伝わると、そこで慶喜ははっきりと周囲に降伏することを表明し、自身は江戸城を引き払い、上野の山にある寛永寺大慈院で蟄居した。二月十二日のことだった。

渋沢栄一の従兄弟が結成

なぜ蟄居先が上野の寛永寺だったかというと、そこは徳川幕府を象徴する存在だったからだ。初代家康をはじめとして秀忠、家光と三代の将軍の帰依を受けた天海大僧正が、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の山に建立したのがこの寛永寺だった。

当然、代々の将軍の崇敬を集めており、歴代将軍十五人のうち六人までがここを墓所にしていた。

慶喜が降伏を表明したことで、その弱腰な態度に幕臣の中から不満を訴える者が続出する。慶喜の奥祐筆(秘書官)を務めていた渋沢成一郎もその一人だった。そう、NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公、渋沢栄一の従兄弟に当たる人物だ。

鳥羽・伏見の戦いにも参戦した成一郎は、江戸に戻ると同志を集め、彰義隊を結成する。表向きの結成理由は将軍の警護だったが、真の理由として「尽忠報国 」と「薩賊討滅」を掲げていた。隊名彰義隊は、一橋徳川家の阿部杖策の案が採用され、「大義を彰かにする」から命名。

また、頭取には成一郎が、副頭取には幕臣になって日も浅い天野八郎が就任した。実は成一郎も天野も出身は農民だった。

彰義隊の結成を聞きつけ、幕臣のみならず、薩長を嫌う町人や侠客などが続々と参加を申し出てきた。そして、またたく間に千人を超えるようになったため、四月三日になり、それまでの浅草の本願寺から寛永寺へと拠点を移すのであった。

官軍からの解散命令を無視する

四月十一日、江戸城が無血開城し、慶喜は故郷の水戸へと退去した。このころ彰義隊は三千~四千人にまで膨張していたという。慶喜が江戸を退去したことで渋沢成一郎は、慶喜を守るには江戸を出て日光に転陣したほうがよいと主張するが、あくまで江戸での駐屯を主張する天野と対立し、そのあげく成一郎は同志を連れて彰義隊を脱退してしまう。

その後の成一郎は、田無(現西東京市)で「振武軍」を結成し独自の活動を展開する。さらに幕臣・榎本武揚と合流して蝦夷地(北海道)へと逃れ、函館戦争に加わった。

終戦後はいったん投獄されるが、従兄弟の栄一の尽力で赦免され、明治の世では生糸貿易を始めるなど栄一共々、実業家として大成功を収めている。

一方、天野八郎が率いる彰義隊だが、官軍からの解散命令を無視したため総攻撃を受けることになってしまった。彼らがなぜ解散命令に応じなかったかといえば、慶喜が江戸からいなくなったことで、隊の行動目的がいつしか、江戸の象徴である徳川家霊廟と、同寺に在住する寛永寺貫主兼日光山輪王寺門跡の公現入道親王(明治天皇の義理の叔父)を守護するという名目にすり替わってしまっていたからだ。

五月十五日未明、官軍は西郷隆盛の信任厚い大村益次郎(兵学者)の指揮のもと、雨が降りしきるなか、ひたひたと上野の山を包囲した。

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総指揮官の大村益次郎は、最も激戦が予想された①黒門口に主力の薩摩・熊本・鳥取らの藩兵、さらに②本郷台には佐賀・津・岡山らの藩兵、③団子坂方面には長州・大村・砂土原らの藩兵を配置した

火を吹くアームストロング砲

当時の寛永寺の全用地は現在の上野公園の二倍、およそ三十万坪(約百ヘクタール=東京ドーム二十一個分)もあった。これほど広大な寛永寺を攻め落とすために大村は、正面の黒門口(上野広小路側)、不忍池の対岸の本郷台、背面の団子坂方面の三方向から攻撃する戦術をとった。

そして東の根岸方面は敵の逃走経路としてわざとあけた上で、午前七時ごろに一斉攻撃を命じた。

主力部隊となる黒門口は薩摩・熊本・鳥取らの各藩、本郷台は佐賀・津・岡山らの各藩、団子坂方面は長州・大村・佐土原らの各藩が布陣した。戦端が開かれると、黒門口付近でいきなり激戦になった。薩摩兵らは大軍にものを言わせてライフル銃を乱射しながら黒門口を突破しようとするが、山王台(現在、西郷隆盛の銅像がある付近)から彰義隊が同じく銃で応戦し、それを阻んだ。

一方、このころ団子坂方面では予想外の「事件」が起きていた。長州兵らは新式(元込め式)のスナイドル銃を持たされたのだが、いざとなって操作に困惑する兵が続出する。そのため急きょ戦線を離れてしばらく練習し、そののちようやく参戦するという、笑うに笑えない椿事が出来していたのだった。

それはともかく、やがて一進一退の戦況が激変する転機が訪れる。その主役となったのが、本郷台の加賀藩邸(現在の東京大学構内)に据えられた大砲、アームストロング砲の存在だった。

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アームストロング砲

三千人が三分の一の千人に減る

このアームストロング砲は佐賀藩が保有していた(佐賀藩が製造したという説もあり)ものだった。正午を期して四門の大砲から立て続けに六ポンド(約二・七キログラム)の炸裂弾が放たれると、それが不忍池を飛び越え、正確に寛永寺に着弾した。これを機に彰義隊は大混乱に陥ってしまう。

この機会を逃してはならじと官軍による怒涛の攻撃が始まった。勢いに乗った官軍は強く、ただただ一方的な殺戮戦となった。午後五時ごろには根岸方面へ敗走した残党以外、彰義隊はほぼ全滅した。わずか半日の合戦だった。

開戦の数日前まで彰義隊は三千人を超える兵力を擁していたという。ところがいざ合戦が始まると三分の一の千人ほどに減っていた。これは臆病風に吹かれて脱退者が続出したからだった。

戦死者の数ははっきりしないが三百人前後とみられており、一方、官軍側のそれは十分の一の三十人前後だったらしい。

彰義隊の生き残った隊士の一部は北陸や会津方面へ逃れながら官軍に抗戦し、のちに函館戦争に加わった者もいた。首魁の天野八郎は何とか上野戦争を生き延びたが、逃亡中に捕まり、同じ年の明治元年(一八六八年)十一月、獄中で病死した。

天野は豪放磊落な性格で、合戦のさなか、一隊を率いて敵陣に突撃したが、ふと気づくと後方の味方は全員逃亡していて、がっかりしたという恨み節も残している。

現在、彰義隊の墓は上野公園の西郷隆盛像の後方にある。碑銘「戦死之墓」を揮毫したのは旧幕臣・山岡鉄舟。当時彰義隊は「賊軍」扱いされていたため、彰義隊の文字を入れることを憚ったからであった。

これまで「逆賊」と決めつけられ、「烏合の衆」と蔑まれることもあった彰義隊。しかし、「徳川の世を死守する」という彼らなりの大義に殉じたことだけは確かである。