教会?聖書?プロテスタントとカトリックを見分ける方法【佐藤優】

ルター

キリスト教といえばプロテスタントとカトリックに大きく分けられることを知っている人は多いと思いますが、ではそこにどのような違いがあるのか、いざ説明しようとすると意外に難しいのではないでしょうか? 教会や聖書に対するスタンスか、それとも教義自体がまったく違うのか…。作家でキリスト教者の佐藤優さんにやさしく解説してもらいました。

教会の始まりはイエスの弟子たちによる「共同体」

現在、日本各地に「教会」があります。日本は、一人が複数の宗教を信仰することに抵抗のない社会なので、とくにクリスチャンではなくても、結婚式を教会で挙げるカップルもいます。

教会は、基本的には誰でも礼拝ができますし、カトリック教会であれば「神父」、プロテスタント教会であれば「牧師」の話を聞けると思います。お金もかからなければ、入信の勧誘も、基本的にありません。

教会の始まりは、イエス・キリスト亡き後、その復活を信じ、教えを守り広めるために、弟子たちや信者が集まって共同体をつくったことでした。

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」(使徒言行録2.44-47)

「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力を持って主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」(使徒言行録4.32-33)

イエスの復活を信じて集まった人々は、お互いに持ち物を共有し合いました。まさにイエス・キリストが言うような「隣人愛」を実践しながら、共同生活を送っていたのです。

現実の社会では、人間同士の争いやいざこざがあり、貧富の差があり、抑圧や差別が横行していました。しかし、この共同体のなかは違いました。そこではみんながイエス・キリストを信じ、互いに愛し合い、貧富の差別もなく、助け合って生きている。

この地上に出現した「神の国」のようなところ。それが教会です。キリスト教の教えの根本である「愛」を感じ、実践できる場所なのです。

教会は神の意志によってつくられた

大事なことは、教会は、人間の意志によって発生したものではないということです。神の意志(聖霊の意志)によって地上に生まれた共同体だと、キリスト教徒は考えます。

わたしたち人類は、歴史のなかで、人間の力によって地上の楽園をつくろうと試みたことがありました。近代では、共産主義や社会主義という思想が生まれ、貧富の格差や差別のない社会を、人間の力でつくろうと試みられました。

ところが理想の社会ができるどころか、旧ソビエト連邦や北朝鮮のような、国民の自由が極端に制限された独裁国家が、いくつも誕生することになりました。

「人間の力のよって理想の社会は達成できる」「人間の理性はいつも正しい」というのは、過信だと思います。

人間の欲望や、競争心、他人を支配したい気持ち。こういったどうしても人間に内在する本質を、キリスト教では「罪」と言いますが、こうした人間の本質を自分たちの力で乗り越えて、世界をつくり変えることができるという傲慢さが、地上の楽園どころか、もっとひどい社会をつくり出したのです。

それに対し、教会は、神の意志によって呼び集められた共同体です。人間の力ではなく、神の力によって愛を実践する共同体、それが教会なのです。

そこに人間の思い上がりや傲慢が入り込む隙間はありません。人間は罪深いものであり、弱いものだという謙虚さ、慎み深さがあり、だからこそ神に救いを求める、そういう気持ちから始まっているからです。

教会は、人間がこの地上において神の愛に触れ、地上における「神の国」を目指そうとする共同体であり、信仰のための大切な場所なのです。

プロテスタントはお金で腐敗する教会に抗議をした人たち

地上における「神の国」を目指すのが、教会であると述べました。ところが、そんな教会も時代が下って中世になると、次第に大きな組織になっていきます。

そしてローマ教皇を頂点として、大司教、司教、司祭、一般信徒、というように、ヒエラルキー(階層構造)ができ、教会は社会的に大きな力を持つようになります。

神の意志ではなく、次第にローマ教皇をはじめとした、司祭たちの意志が優位になるようになっていくのです。

中世ヨーロッパの教会は、十字軍の派遣や大聖堂の改築などの資金を捻出するため、「贖宥状」(いわゆる免罪符)を発行するようになりました。お金を払って贖宥状を買えば、現世の罪が軽減され、天国に行くことができるようになるというものです。

キリスト教について深く知らない民衆は、教会に言われるまま、誰もが天国に行きたいと、こぞってお金を払い贖宥状を買いました。

もちろん、お金で罪があがなわれるわけがありません。これではお金持ちであれば、誰もが天国に行けることになります。そもそも人間の罪は、イエス・キリストの犠牲と神の許しによってしか、あがなわれないものだからです。

この教会の腐敗した行動に立ち上がり、教会を批判して対立し、その後、独立したのが「プロテスタント」と呼ばれる一派です。プロテスタントには、「抗議する者」という意味があります。

プロテスタント(抗議する者)という立場に対し、昔からの伝統的な教会の立場を、「カトリック」と言います。カトリックという言葉には、「普遍の」という意味があります。

「救われるかどうかは神が決める」と言ったカルヴァン

16世紀に入ると、各地で抗議運動が起こります。最初に立ち上がったのが、ドイツのマルティン・ルター(1483~1546)という人です。1517年、彼はお金を払って現世の罪を軽減する「贖宥状」を発行していた当時の教会のやり方を批判し、「宗教改革」の先駆けとなりました。

この宗教改革の動きは、ヨーロッパ各国におよび、スイスでは、ジャン・カルヴァン(1509~1564)という人が立ち上がります。

彼は、それまでの司祭制度を廃止して、長老制をとりいれました。長老制というのは、教会のなかでとくに信仰が熱心な人を、教会員による選挙で代表に選んで、信徒を教え導くお手伝いをしてもらおうという制度です。

またカルヴァンは、「救われるかどうかはその人の行動や考え方に関係なく、神が決めるものだ」とする「予定説」を説きました。これは当時の考え方としては、革新的なものでした。

当時の教会には、「人間は、自分の努力によっても救われる」という考え方があったからです。この考え方によって贖宥状などが生まれたのです。

ところで、「救われるかどうかはその人の行動や考え方に関係なく、神が決めるものだ」とすると、わたしたちには、努力する意味は何もないのでしょうか?

そうではありません。カルヴァンは、神に与えられた自分の個性を生かし、自分の仕事を「天職」と考えて一生懸命励むなかで、「自分は神に選ばれている」という確信が持てるようになる、と言います。ですから現代でも、「カルヴァン派(改革長老派)」と言われる教派の人たちは、誰よりも一生懸命働きます。

ルターやカルヴァンの宗教改革の動きによって、それまでの教会の態度も変化していきます。カトリック教会は自ら内部を改めて、贖宥状を廃止しました。

カトリック教会とプロテスタント教会、どうやって見分ける?

カトリックとプロテスタント、それを見分けるポイントはいくつかあります。

まず一番は、ローマ教皇です。カトリックは、先ほどもお話ししたように、ローマ教皇を教会のトップとして、たいへん尊重します。しかしプロテスタントにとっては、ローマ教皇は特別な存在ではありません。あくまでも信徒の一人にすぎません。

もう一つは、イエスの母親「マリア」に対する向き合い方です。カトリックではイエスを産んだ存在として、「聖母マリア」と讃え、特別視します。

しかしプロテスタントは、イエスを産んだとはいえ、ただの人間に過ぎないということで、特別にあがめることはしません。

ですから近所の教会に行ってみて、マリア像があったらカトリックの教会、なかったらプロテスタントの教会と判断することもできます。

また休日の教会での集まりを、カトリックは「ミサ」と呼び、プロテスタントでは「礼拝」と呼びます。

聖職者の呼び方も違います。カトリックの教会にいる聖職者は、「司祭」「神父」と呼ばれるのに対し、プロテスタントの教会にいる聖職者は、「牧師」と呼ばれます。

ちなみに「司祭」という言い方は役職の名前で、「神父」と呼ぶのは、一種の尊称(尊敬をこめた呼び名)です。これに対し「牧師」は、「迷える羊を導く牧者」の意味があり、信徒に対して上から教えるのではなく、寄りそいながら導くという立場です。

 

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佐藤優

PROFILE
佐藤優

1960年東京都生まれ。85年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務を経て、95年、同省国際情報局分析第一課主任分析官。2002年、背任及び偽計業務妨害容疑で逮捕。09年、背任及び偽計業務妨害の有罪確定で外務省を失職。13年、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。捜査の内幕を描いた『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)が05年に出版されると大反響を呼ぶ。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞