キリスト教と仏教を決定的に分かつ「因果論」という要素【佐藤優】

キリスト

私たち日本人の多くは、無意識のうちに仏教的世界観を通して物事を判断しています。キリスト教がベースにある国や人の考え方がどうしても理解できないとき、そこには「因果論」という要素が関係しているのかもしれません。作家でキリスト教者の佐藤優さんに解説してもらいましょう。

キリストは「人間でありながら神でもある存在」

キリスト教とほかの宗教との大きな違いはたくさんありますが、イエスという人物が「真の神であり、真の人間でもあった」ということが、決定的に大きな違いでしょう。ほかの宗教では、このように神であり、人間でもある存在は見当たりません。

イスラム教はアッラーの神、ユダヤ教はヤハウェの神がいますが、人間の形をしてこの世界に降りてくることはありません。

イスラム教の創始者マホメットは、あくまでも預言者であり、神ではなく人間です。仏教の開祖・釈迦も、一人の人間です。仏教のなかに、菩薩や如来と呼ばれる尊称がありますが、これらも神ではなく、悟りを目指している存在であったり(菩薩)、悟りを得た存在(如来)のことを指します。

ユダヤ教では、完全なる存在である神を、「物理的な形であれ、分身という形であれ、可視化することなどあり得ない」と考えます。偶像崇拝も固く禁じられていました。

ですからユダヤ教徒は、イエスを「真の神であり、真の人間でもある」とみなすことは、神への冒瀆だ、と考えました。ユダヤ教徒は、イエスにこう言います。

「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」(ヨハネによる福音書10-33)

しかしわたしたち人間は、何かしら神の存在を確認したい、実感したいという気持ちもあります。だから神の似せ絵をつくったり、像をつくったりして、それを拠り所にする。

神であり、人間でもあるイエスは、そんなわたしたちの気持ちや願いに、まさにこたえてくれる存在と言えます。この点において、キリスト教というのは特異な宗教なのです。

ちなみに、神であり人間でもあるという存在がかつて、わたしたちのこの日本にもいました。そう、万世一系の天皇です。太平洋戦争の終わるまで、天皇は、神であり人間でもある「現人神」とされていました。

しかし戦後、天皇の人間宣言によってそれは否定され、今日にいたっています。

奇跡、十字架刑、死後の復活―という物語性

もう一つ、キリスト教がほかの宗教と違うところは、イエスが貧しい大工のもとに生まれ、最後は多くの人たちに罵倒され、罪人となって処刑されたという、衝撃的なストーリーです。

救世主として地上に現れ、数々の奇跡を行い、神の存在と、神の愛を人々に伝える。しかしイエスをねたむ人々によって、十字架にかけられ、血を流し、もだえ苦しみながら死んでしまう。

死の3日後、死ぬ前に言ったとおりに、復活して弟子たちの前に現れ、最後の審判の日にはまたやってくると言って、神の国へ帰っていく──。

このような衝撃的で生々しいストーリーを持つ宗教は、キリスト教をおいてほかに見当たりません。

このストーリーの中心的なテーマである、「人間の持つ罪」という考え方も、キリスト教の特徴です。

イエスの受難(苦しみを受けること)は、わたしたち人間の罪をあがなうための犠牲でした。罪なきイエス・キリストの犠牲の死によって、わたしたち人間の罪があがなわれた、つぐなわれたと考えるのも、キリスト教ならではの考え方です。

人間であれば誰しも生まれながらにして持っている罪を、「原罪」と言います。人間には生まれながらに、ぬぐいがたい罪がそなわっている。その罪が形になって現れ出ると、「悪」となります。

原罪については別の記事でも詳しく解説していますが、ここではほかの宗教との比較という視点でお話ししましょう。

ユダヤ教でも、創世記のなかに、神が食べてはならないといった「善悪の知識の木の実」を食べて、その罰として楽園を追放されたアダムとエバの話がありますから、同じように、「原罪」という意識はあります。ただしその罪が、人間の本性としてずっと引き継がれると考えるのは少数派です。

また、イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教とともに「アブラハムの宗教」と呼ばれ、その祖を同じくすると言われますが、やはり、「原罪」という意識はありません。

キリスト教では、イエスが犠牲になることによって人間の罪があがなわれると同時に、その犠牲によって、自分たちがもともと内側に持っている「原罪」の存在を強く意識し、再認識するという構造になっています。

仏教は「因果応報」の世界観

人間がもともと「悪」を内在しているという点では、仏教もまた似たような考え方として、「煩悩」を挙げています。

人間には欲望や執着という煩悩があり、それらが悪因となって、さまざまな苦しみが生まれるとします。ただし、その煩悩は、人間の知恵と努力によって消し去っていくことができるというのが、仏教の基本的な立場です。

もちろんたいへんな努力と精進が必要なのですが、自分の力によって、どうにか煩悩を消し去り、もはや欲望と執着にとらわれない「涅槃」という境地にたどり着くことを目指します。つまり、「自力(自分の力)による救済」を中心としているのが、仏教(とくに初期の仏教)の立場なのです。

これに対して、キリスト教における「原罪」は、決して人間の力で消し去ることはできません。消し去るには、神の愛と、キリストの受難とが必要となります。その意味で、「他力による救済(他の力による救済)」が、キリスト教、とりわけプロテスタントの立場なのです。

これは同時に、キリスト教が「因果論」を取らないということにもつながります。

因果論という言葉について、少し説明をしましょう。仏教には、「悪因苦果」「善因楽果」という言葉があります。悪いことをすれば、のちに苦しみがやってくる。善いことをすると楽なこと、楽しいことがやってくる。すべての物事の表れには、過去にそれ相応の原因があると考えます。原因があるから結果が生まれる。このような考え方を、「因果論」と呼びます。

「因果応報」という言葉を聞いたことがあるでしょう? まさに、このことを指した言葉です。だから仏教では、善行を積めば極楽に行けるし、悪行を積み重ねれば地獄に落ちると考えるのです。

ところがキリスト教では、因果論ではなくて、「どんなに善行を積んだとしても、それが救済に結びつくとは限らない」と考えるのです。自分が何をしたかは関係なくて、神の国に行けるかどうかは、すべて神の判断による、と考えます。

プロテスタントのなかのカルヴァン派は「予定説」を説きます。カルヴァンは、「神の国に行ける者なのか、滅びにいたる者なのか、あらかじめ決まっているのだ」と述べています。これを「二重予定説」と言います。

これはかなり特異な宗教だと思います。仏教に限らず多くの宗教では、良いことをしたら天国に行けるし、悪いことをしたら地獄に落ちる、と説きますよね。ところが、キリスト教のカルヴァン派では、人間が何をしようとも、どんな行いをしようとも、結果は、神の意志によって最初からあらかじめ決まっていると考えるのです。

カトリックでは、多少人間の行いによって変わるという立場もありますが、基本的にはキリスト教は、「他力による救済」を願うものであり、決定論的な考え方が強いのです。

 

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佐藤優

PROFILE
佐藤優

1960年東京都生まれ。85年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務を経て、95年、同省国際情報局分析第一課主任分析官。2002年、背任及び偽計業務妨害容疑で逮捕。09年、背任及び偽計業務妨害の有罪確定で外務省を失職。13年、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。捜査の内幕を描いた『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)が05年に出版されると大反響を呼ぶ。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞