“おまわりさん”の語源にもなった幕末の剣客集団「新徴組」の正体

江戸

江戸の幕末期、京都の治安維持活動に当たっていた「新選組」は小説やドラマなどで語り尽くされた感があるが、新選組とほぼ同時期にもう一つの剣客集団による警察組織が東のほうで誕生していたことをご存じだろうか。それが、江戸市中の治安維持活動に当たった「新徴組」である。新徴組と聞いても、誰が隊長でどんな活躍をしたのか、あまり知られていないのが実際のところだ。しかしながら、今日、わたしたちは警察官のことを親しみをこめて「おまわりさん」と呼ぶことがあるが、実はこのおまわりさんの語源になったのが、新徴組だと言われているのだ。新徴組の旗揚げ理由と実際の活躍ぶり、さらに明治維新を迎えて組織はどうなったのかなどを探ってみた。

幕府、清河の提案を受け容れる

新徴組の誕生については、庄内藩(本拠地は山形県鶴岡市)出身の志士、清河八郎という人物が大きくかかわっていた。

作家・司馬遼太郎が代表作『竜馬がゆく』の中で、「幕末の史劇は、清河八郎が幕をあけ、坂本竜馬が閉じた」と記した、あの稀代の策士、清河八郎である。実は清河は、新徴組・新選組、両方の旗揚げにかかわっていたのだ。その経緯はこうである。

文久二年(一八六二年)八月、横浜で「生麦事件」が起こる。激怒した英国側が報復のため横浜に軍艦を差し向けるのではないかという噂が江戸市中で飛び交うようになった、そんなさなかに、新徴組の母体となった浪士組が誕生した。

江戸や京都で尊皇攘夷運動が激化したことから、その対応に苦慮した幕府が、「身分を問わず、優秀な人材を集め、乱れた京都の治安を回復し、将軍家茂の上洛を警護するための浪士組を結成すべし」との清河の提案を受け容れ、江戸で結成したものだった。同年十二月のことである。

こうして誕生した浪士組は翌文久三年二月八日、初任務として、京都で将軍家茂を警護するため清河以下総勢二百三十人余で江戸を発った。ところが、いざ京都に着くと清河は壬生の寺に一同を集め、こう宣言したのである。

本隊と袂を分かった近藤と土方

「本当の目的は将軍警護にあらず。尊皇攘夷の先鋒になることである」と。

そして、これから全員で江戸へ戻り、横浜の警備に当たろうではないかと呼びかけたのである。このとき弁舌が巧みな清河に言いくるめられ、ほとんどが賛成した。

ところが、清河の意見に異を唱える者たちもいた。それが近藤勇や土方歳三ら、のちの新選組につながる男たちだった。

近藤らは「自分たちは将軍を警護するという約束で京都にやって来たのであって、それでは話が違う」と言い、そのまま京都に居残ることを主張した。こうして清河が率いる二百人余の本隊は近藤ら二十四人と袂を分かち、東海道を下ったのである。

浪士組本隊が江戸に戻ると、噂を聞いて諸方から尊攘派の浪士が駆け付け、隊はあっという間に五百人ほどにも膨れ上がった。こうした状況を苦々しい思いで見ていたのが幕府だった。

当初の約束どおり浪士組が京都の治安維持や将軍の警護に働くなら何の問題もなかったのだが、国が西洋列強と微妙な関係にある今、短絡的に西洋人と揉め事を起こされてはたまったものではなかったからだ。

結果的に幕閣の中で、首魁である清河を排除すべしという声が高まり、佐々木只三郎ら幕府が放った刺客によって清河は暗殺されてしまう。それは、京都から戻ってまだ間もない四月十三日のことだった。享年三十四。

庄内藩へ厄介払いされる

清河を排除したとはいえ、浪士組そのものは健在だったため、その処遇に苦慮した幕府は、組織の再編成に乗り出した。新たに「新徴組」の名を与え、若年寄支配とし、江戸市中の治安維持活動に当たらせたのである。

ところが、隊士たちは日々任務をこなすうち、自分たちの行動が尊皇・佐幕のどっちつかずになってしまったことに気づいてしまう。その結果、自暴自棄となって通行人に乱暴を働いたり商家に飛び込んで押借り(無理やり金品を借りること。もちろん返さない)したりする者まで現れるようになり、何のための警察組織かわからなくなってしまった。

そこでまたまた困った幕府は、当時、江戸市中の警備活動を命じていた庄内藩に、新徴組をそっくり預けることにする。ていのよい厄介払いだった。

庄内藩は徳川四天王の一人の酒井忠次を祖とする酒井氏が統治する東北の雄藩で、藩兵は規律に厳しく、諸藩の中でも指折りの軍事力を備えていることでも知られていた。この庄内藩なら、乱暴者の集まりの新徴組であろうと難なく御するに違いないと踏んだのである。

とにもかくにも、こうして新徴組は元治元年(一八六四年)から庄内藩酒井家の御預かりとなる。このあたり、会津藩松平家の御預かりとなって京都の治安維持活動に当たった新選組とは、合わせ鏡を見るようにそっくりである。

ただ一つ違ったのは、新選組にはある程度自主性が認められ、近藤ら幹部の命令で動いたのに対し、新徴組はあくまで庄内藩の命令で動いたことである。

毎日早朝から深夜まで休みなく巡邏

こうして新徴組は政治色が一掃され、治安維持活動一本にしぼられることになった。庄内藩の指導もあり、市民に乱暴を働くようなこともなくなった。組織の詳しい編成だが、一組が二十五人からなり(五人×五隊)、全部で六組あった。つまり全体で百五十人いたことになる。実際はこのほかに事務方が若干名いたとみられている。

一日に二組が出勤し、昼夜交替で市中を巡回した。屯所(拠点)は現在の飯田橋のあたりにあった酒井家の長屋に設けていた。この百五十人で東は両国、西は内藤新宿(新宿)、北は浅草吉原、南は品川までの広い範囲(現在の山手線内のエリアにほぼ相当)をカバーした。

こうした巡邏活動は毎日早朝から深夜まで続けられ、正月休みさえもなかった。いずれも腕に覚えのある猛者ぞろいで、もしも犯罪者を捕獲中に抵抗された場合、斬り捨てても構わないという許可を幕府から得ていたという。

こうした新徴組の地道な巡邏活動により、それまで江戸の庶民を悩ませていた不逞浪士らの動きがぴたりと止んだ。新徴組の存在が江戸の治安回復に予想以上の効果を発揮したのである。彼らは使命感に燃えており、あまりの激務から自殺者が出ることもあったという。

江戸の人々はそんな新徴組に対し、次のようなざれ歌をつくって感謝した。

酒井なければお江戸はたたぬ 御回りさんには泣く子も黙る

このときの御回りさんという呼称が、明治の世となって近代警察の巡査の呼称として受け継がれたのだという。

薩摩藩の江戸藩邸を焼き討ちする

慶応三年(一八六七年)になり、江戸や関東の各所で不逞浪士による放火や掠奪、暴行などの事件が頻発するようになる。彼ら不逞浪士たちは、勤皇活動のために軍資金を借りるという名目で商家から金を奪うことが多かったため、「御用盗」と呼ばれ江戸の人々から怖れられた。

これは薩摩の西郷隆盛が、幕府を挑発して開戦に踏み切らせるために「赤報隊」の相楽総三などをけしかけやらせたことだった。

江戸の治安を守る新徴組にとってこうした御用盗の存在は無視できないものだった。やがて、御用盗の背後に薩摩藩がいることを地道な探索によってつかんだ新徴組は、幕府や庄内藩と合同で、三田にあった薩摩藩の江戸藩邸を焼き討ちする。

同年十二月二十五日(西暦では一八六八年一月十九日)のことだった。この事件が戊辰戦争の発端になったわけである。のちに事件のことを知り、西郷は思わず会心の笑みをもらしたと伝えられる。

その後の新徴組だが、庄内藩士と同格の扱いを受けることになり、戊辰戦争では庄内藩兵として東北各地で新政府軍と戦った。しかし、大勢はすでに決しており、隊士のほとんどが戦死した。わずかに生き残った隊士はその後、庄内地方や北海道の開墾事業に汗を流したという。

新徴組は、京都で活動した新選組と比べて確かに地味な印象をぬぐえない。はからずも薩摩藩邸の焼き討ち事件によって幕末を加速させた「責任」は否定できないが、幕末の動乱期、捨て身で江戸の人々の安全を守った彼らの使命感や職業意識の高さはもっと評価されてよいだろう。