熊本城はなぜ地震で崩れた!? 天下一の石工集団「穴太衆」の実力

熊本城

お城といえば堅牢な石垣に守られた城郭や天守閣を想像する人が多いだろうが、そんな近世城郭建築の一翼を担ったのが「穴太衆」である。かつて日本に存在した、穴太積の名で知られる城などの石垣づくりを専門とした石工集団だ。彼らは織田信長が築城した安土城を皮切りに、各地の大名から依頼を受け、近世城郭のほとんどの普請に携わった。あまたの石工がいるなかで、穴太衆に大名たちの依頼が集中したのは一体なぜだろうか。また、彼らが手がけた熊本城が二〇一六年四月の熊本地震で大きな被害を受けたのはなぜなのか。穴太衆が歩んできた歴史と共にその謎を解いていく。

地震に強い日本の歴史的木造建築

日本地震学会によると、日本およびその周辺で人間の体に感じる地震(震度一以上の有感地震)は一年間に千~二千回も起きているという。これは一日に三~五回にもなる計算だ。文字通り、「地震大国ニッポン」である。

ところが、そんな地震頻発国にあって歴史的木造建築が地震によって倒壊したという話はほとんど聞いたことがない。よく引き合いに出される法隆寺五重塔など、千三百~千四百年間もの永きにわたって創建時の姿を現代にとどめているのだ。これはまさしく日本建築史上の奇跡と言ってよいだろう。

地震に強いという意味では近世城郭もそれに当てはまる。戦国時代から江戸初期にかけて建築された城で、創建時の天守の姿を今に伝えている城は十二を数える。江戸時代の「一国一城令」、明治時代の「廃城令」、さらに太平洋戦争時の米軍の空襲がなければもっと多くの城が地震に耐えて各地で現存していたはずである。

朝鮮半島からの渡来人がルーツ?

京都と滋賀の境にあり、千二百年の歴史を誇る天台宗の総本山、比叡山延暦寺。その門前町で滋賀県大津市坂本穴太が石工集団・穴太衆のふるさとである。穴太衆の歴史は延暦寺の歴史と共に紡がれてきた。彼らは延暦寺の創建時から境内や門前町にある石垣の普請に携わり、石積みの技を営々と磨いてきたのである。

延暦寺以前の穴太衆だが、確かな史料が残っていないため、はっきりしたことはわからないが、元々のルーツは大陸(朝鮮半島)からの渡来人だったらしい。穴太には「穴太野添古墳群」という名の六~七世紀ごろに造営された古墳の密集地帯があり、大陸由来とみられる横穴式石室の石積みは、のちに穴太衆がもっとも得意とした石の積み方「野面積」とそっくりだという。

今日、江戸時代の初期から穴太衆の技を受け継ぐ一族に大津市の粟田家(商号は「粟田建設」)があるが、同家では「その昔、朝鮮半島にあった百済に、穴太と名乗る部族がいて、それが土木工事や石工を得意とする集団だった」という口伝が残されているという。

この口伝が正しいとするなら、古墳時代に朝鮮からその穴太の一族が渡来し、琵琶湖南西端にある大津に住み着き、以来、得意とする石積みの技をその時々の権力者のために発揮してきたのであろう。

信長、比叡山の焼き討ちによって穴太衆を知る

古墳時代から穴太衆の石積み技術が途絶えることなく脈々と受け継がれてきたのは、彼らが大陸から持ち込んだ技術に固執せず、雨や湿気、山岳地帯が多いという日本独特の気候や自然環境を考慮し、新技術を次々に生み出していったからだと言われている。

特に、加工を最小限にとどめた自然石を積み上げていく野面積の石垣は、堅牢でありながら水はけを邪魔しない最適な積み方として知られている。

そんな古墳時代から培った穴太衆の技術の粋を結集させたのが、比叡山延暦寺だったのである。ところが戦国末期となり、穴太衆が心血を注いだその延暦寺が傍若無人に破壊されるという大事件が起こる。織田信長のしわざだった。

信長はこの「比叡山の焼き討ち」によって、重臣の丹羽長秀に焼け残った石垣までも徹底して破壊するよう命じたという。ところが、ほどなくして信長のもとに戻って来た長秀は、あきれた表情でこう言上した。

「頑丈この上なし。破壊しつくそうとすれば、どれほどの人手と時間がかかるか知れたものではございません」

このときの長秀の報告によって、信長は初めて石工集団・穴太衆の存在を知ったようである。のちに信長は天下布武の象徴として琵琶湖東岸に安土城を建設するのだが、石垣づくりは穴太衆に一任したという。信長にとって延暦寺の石垣はよほど衝撃的だったのであろう。

江戸も中期になると石垣の依頼が激減

穴太衆による安土城の石垣普請は、信長が穴太衆に対し「天下一の石工集団である」というお墨付きを与えたようなものだった。当然そうなると、新たに城を建設したいという大名や改築したいという大名から穴太衆に依頼が殺到した。

この戦国末期から江戸初期にかけて、穴太衆が石垣普請の全体、または一部に携わった城は大坂城、江戸城、名古屋城、姫路城、伊賀上野城……など枚挙にいとまがない。一説に、近世城郭のほぼ八割にかかわっているという。穴太衆の最盛期には三百人余りの職人がいて、各地の大名から引き抜きにあう例も珍しくなかった。

豊臣方から徳川方に鞍替えし、のちに家康から土佐一国を賜った山内一豊など、土佐に入国する際、穴太衆の一人を召し抱えたのだが、最初に決めていた俸禄百石ではヨソに取られかねないと心配し、百五十石に引き上げたほどである。それほど当時の穴太衆は引く手あまただったのである。

ところが江戸も中期になると、それまでの築城ブームも収まり、穴太衆への依頼は激減してしまう。古代から継承されてきた穴太衆の石積み技術もこれで途絶えてしまうのかと心配されたが、それを救ったのが故郷の坂本だった。

それまで比叡山の門前町である坂本を活動拠点としてきたことがさいわいし、最盛期には比ぶべくもないが、延暦寺や門前町の営繕仕事を細々と続けることで、かけがえのない技術を後世に伝えることができたのであった。

滋賀県大津市の高穴穂神社の境内には、復元された「穴太積み」による石垣がある

穴太衆が手がけた熊本城がなぜ地震で崩壊?

穴太衆の石積み技術がどれほどすごいのか──そのことを証明する、ある実証実験が近年行われている。新名神高速道路の建設時、道路わきの防壁を整備するために京都大学大学院の研究者らによって、穴太積とコンクリートブロックでそれぞれ斜面の崩壊を防ぐための擁壁(幅十五メートル、高さ三・五メートル)をつくり、どちらが荷重により耐えるかを実験したのである。

結果、荷重二百トンでまずコンクリートのほうに亀裂が入った。二百二十トンになると壁の勾配の傾斜が厳しくなり、これ以上は崩壊の恐れがあって危険というので、実験はその時点で中止された。一方、穴太積は二百二十、二百三十、二百四十、二百五十トンと上がったが、壁面にほとんど変化は見られなかった。自然石を利用した穴太積が現代のコンクリートブロックの強度をはるかに凌いだのである。

もうひとつ、穴太衆の名誉のために述べておくことがある。それは熊本城のことだ。平成二十八年(二〇一六年)四月、熊本は国内の地震観測史上初めて二度の震度七に立て続けに見舞われた。この大地震によって熊本城のほとんどの建物や石垣などが大小の被害に遭ったことはご存じのとおり。

この石垣も元々は穴太衆が手がけたものだった。ではなぜ崩れたのかといえば、実は熊本城の石垣は明治期に大改修がなされており、その際、穴太衆にお呼びはかからなかったのだ。改修の際、穴太衆の知恵が加わっていれば、被害の規模ははるかに軽減できたはずだと城郭建築の専門家はみているという。