かつては高級住宅街!? 世界的な歓楽街「歌舞伎町」の地名の由来

歌舞伎町

前の記事では、新宿歌舞伎町のこれまでのイメージを一新する複合エンターテインメント施設が誕生しつつあることをお知らせした。コロナ前は世界中からの観光客を集めていたこの巨大歓楽街は、そもそもいかにして生まれ、成長してきたのだろうか? 第二次世界大戦後の都市開発という視点からひもといてみたい。

戦後の闇市からいち早く復興を遂げる

第二次世界大戦中、アメリカ軍の空爆により東京は甚大な被害を受けた。最も被害が大きかったのは1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲だ。この日の未明、アメリカ軍の大型戦略爆撃機B29約300機が襲来。東京下町地区を中心に焼夷弾による絨毯爆撃を行い、死者・行方不明者10万人以上、被災家屋約27万戸という甚大な被害をもたらす。

今日の住所でいえば、墨田区・江東区・台東区・荒川区・千代田区・中央区など、東京の市街地の東半分にあたる約41万が一晩で焼失した。

この3月10日の空襲では、新宿はほとんど被害を受けなかったが、アメリカ軍による東京への大規模空爆は繰り返し行われ、4月13日(B29約300機)、5月24日(約550機)、5月25日(約500機)の空襲で新宿全域はほぼ焦土と化した。

それから3カ月弱で日本は終戦を迎えるが、復興に向けた新宿の取り組みは素早かった。

まず動いたのがテキ屋(露店商)だった。終戦5日後の8月20日、関東尾津組組長の尾津喜之助が「光は新宿より」のキャッチフレーズを掲げ、新宿駅東口の焼け跡で闇市「新宿マーケット」を開設したのだ。場所は現在の中村屋からビックロにかけての新宿通り沿いだったようだ。

その後、池袋、渋谷、新橋、神田、上野でも順次闇市が開設されるが、新宿は東京のどの町よりも早かったという。新宿マーケットにはそれから野原組、和田組、安田組といったテキ屋が加わり、テキ屋同士が協調してマーケットを維持し、一般商店が本格的に商業活動を始めるまでの期間、彼らが一般市民の衣食住全般を支え、同時にわが国の復興そのものを支えることになる。

戦後の闇市で活躍したテキ屋たちは、戦時中から空襲後の瓦礫の撤去などで警察に協力していたため、行政機関との関係性も悪くなかった。復興が進むにつれ、行政機関はGHQの命令により、露店整理事業を推進。バラックづくりのマーケットを順次撤去していったが、それまで営業していた露天商を単に排除するのではなく、更地になった駅前広場に新たなビルを建築する際、テナントとしての入居も認めていたようだ。

新宿駅前はこうしたテキ屋と行政機関の奇妙な協力関係により、焼け跡→バラックの闇市→更地→駅前広場再生という、効率的な都市開発がなされていくことになる。

ちなみに、闇市時代の飲み屋の露店商がそのまま移転する形で集積したのが、現在の新宿ゴールデン街だといわれている。

歌舞伎劇場を開設する計画があった

終戦直後、新宿は闇市ができるのも早かったが、それ以上に機敏に動いたのが現在の歌舞伎町、当時の角筈町内会だ。終戦4日後の8月19日には、淀橋区角筈一丁目北町(現在の歌舞伎町の一部)の町会長・鈴木喜兵衛が復興計画策定に着手。

8月23日には町会員に復興計画趣意書を配布している。こうした動きはその後、民間主導の形で戦災復興事業へと展開していく。

復興事業のポイントを今風にいえば、「角筈の街を一大アミューズメント・パークにしよう」というもの。映画館、演芸場、ダンスホールなどを建設するほか、企画の〝目玉〟にしたのが、銀座の歌舞伎座のように、歌舞伎が鑑賞できる歌舞伎専用劇場を新宿につくること。「菊座」という劇場名まで決めていたという。

また、歌舞伎劇場の開設に合わせて、角筈町は東京都に町名変更を申請。申請は受理され、1948年(昭和23年)4月、角筈は「歌舞伎町」へと生まれ変わった。これが今日の歌舞伎町の由来である。

結論からいえば、歌舞伎劇場開設の夢は残念ながらかなわなかった。建築規制や資金繰りの問題など、いくつもの障壁が立ちはだかったらしい。だが、その一方で、映画館「地球座」(後の新宿ジョイシネマ、現在のヒューマックスシネマ)の開館は実現し、町はその後のアミューズメント路線へ踏み出していく。

歌舞伎町はかつて高級住宅街だった!?

現在の歌舞伎町一帯は江戸時代、肥前大村藩主大村家の屋敷地だった。付近に「大久保」という地名が残っているように、そこは大きな窪地であり、湿地帯でもあった。時代が明治になってからは、皇室の鴨場(鴨の狩猟を行う池)になっていた。

一方、江戸時代に人々の生活用水となっていたのが神田上水と玉川上水だ。ところが明治維新の混乱で上水の管理ができなくなると、生活用水の水質は一気に悪化。1886年(明治19年)には、東京でコレラが大流行して1万人以上が死亡したとされる。

事態を重く見た明治政府は、外国人技師の意見を取り入れるなどして、近代的な浄水場の建設計画を立案。東京府と東京市の負担により、現在の新宿区西新宿にあたる東京府豊多摩郡淀橋町に浄水場を建設することになる。この地が選ばれたのは、地形的に玉川上水の水を誘導しやすかったからだ。

こうして1898年(明治31年)、淀橋浄水場が完成。総面積は約34ヘクタール。長さ218m、幅103m、深さ3mの沈殿池3面と、長さ78m、幅51m、深さ0.8mの濾過池24面を備える巨大な施設だった。玉川上水の水はこの淀橋浄水場で浄化され、ポンプで圧力をかけて1日24万の水を東京全域に送るシステムが完成する。

この淀橋浄水場を建設したときに出た残土で埋め立てられたのが、当時の豊多摩郡淀橋町角筈、のちの歌舞伎町だった。地盤が強固に改良された角筈で1920年(大正9年)に建てられたのが、東京府立第五高等女学校(現、東京都立富士高等学校・附属中学校)である。その後、この地域は軍人や官僚向けの住宅地として発展していく。第二次世界大戦前まで、歌舞伎町は高級住宅街でもあったわけだ。

この事実に着目すると、第二次世界大戦後に立案された東京都の復興計画で、現在の歌舞伎町が取り上げられた理由も理解できる。東京都は1946年(昭和21年)に発表した東京戦災復興都市計画で、区画整理を実施すべき約40の地域のひとつに淀橋町角筈(歌舞伎町)を挙げていたのである。

その後、GHQの意向などで計画は大幅に縮小されたが、角筈では計画どおり区画整理が実施された。現在の歌舞伎町の街並みが奇妙に整然としているのは、こうした理由からである。

歌舞伎町の区画整理

なお、1948年に角筈から名称変更された歌舞伎町は、1950年(昭和25年)に開催された「東京産業文化博覧会」のメイン会場として知名度を上げた。

1952年(昭和27年)には「東京スケートリンク」がオープンし(のちにボウリング場となり新宿TOKYU MILANOに改称)、1956年(昭和31年)の新宿コマ・スタジアム(のちの新宿コマ劇場)の誕生により、歌舞伎町は娯楽の殿堂として一気にブレークすることになった。

ちなみに、アミューズメント志向がさらに過激化して、歌舞伎町が日本一の性風俗店街として名を馳せるのは1980年代に入ってからのことだ。

 

PROFILE
市川宏雄

明治大学名誉教授。東京の本郷に1947年に生まれ育つ。早稲田大学理工学部建築学科、同大学院修士課程、博士課程(都市計画)を経て、カナダ政府留学生として、カナダ都市計画の権威であるウォータールー大学大学院博士課程(都市地域計画)を修了(Ph.D.)。一級建築士でもある。ODAのシンクタンク(財)国際開発センターなどを経て、富士総合研究所(現、みずほ情報総研)主席研究員の後、現職。日本と東京のこれからについて語るために国内、海外で幅広く活動する他、東京の研究をライフワークとして30年以上にわたり継続している。『東京一極集中が日本を救う』(ディスカヴァー携書)、『東京2025ポスト五輪の都市戦略』(東洋経済新報社)、『山手線に新駅ができる本当の理由』(KADOKAWAメディアファクトリー新書)など著書多数。NHK「特報・首都圏」、日本テレビ系「スッキリ」、TBSテレビ系「ひるおび」、テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」などテレビ出演多数。