倒した人数は敵より味方の方が多かった…新選組に見る粛清の思想

f:id:SOmaster:20211008113846j:plain

新選組の壬生屯所があった壬生寺

幕末、京都の治安維持活動に当たった浪士集団――新選組。佐幕か倒幕かで沸騰する動乱期を閃光のように駆け抜け、若い命を散らしたその潔い生き方に憧れを抱く人はいつの時代も少なくない。新選組といえば「池田屋事件」がすぐ思い浮かぶが、このように新選組が取り締まりにかかわった事件で、現場において斬り捨てた勤皇の志士は二十数人にのぼるという。だが、実は新選組という組織はこうした本来の取り締まりで殺害した人数よりもはるかに多くの仲間を、内部粛清によって殺害していたことをご存じだろうか。

酒に酔わせて闇討ちにかける

新選組の粛清事件と聞いて、その草創期、権力闘争の末に水戸藩浪士の芹沢鴨が暗殺された事件を挙げる人も多いことだろう。この事件を、新選組が手を下した最初の粛清事件と思っている人もいるようだが、それは違う。粛清事件の被害者第一号は、殿内義雄という人物である。

文久三年(一八六三年)三月二十五日に起きた事件というから、近藤らが清河八郎と袂を分かち、京都に残って新選組の前身である「壬生浪士組」を旗揚げした直後のことである。殿内は現在の千葉県山武市の裕福な農家の出身で、文武両道の才を認められ下総国結城藩に仕官した経験も持っていた。

近藤ら「試衛館」一派が、なぜこの殿内を殺害したのか、はっきりしたことはわかっていないが、おそらくは殿内の才能に嫉妬し、このままでは早晩、殿内一派に飲み込まれてしまうに違いないと怖れたからとみられている。

近藤に欺かれ、したたかに酔わされた殿内は、四条大橋で闇討ちに遭ってしまう。のちに近藤は自分が手を下したことを郷里の後援者に手紙で白状しているので、実行犯は近藤で間違いないだろう。盟友の沖田総司も加わっていたらしい。事件を知り、殿内一派はあわてて京都を去ったという。

最初の隊規に「切腹」の文字はなかった

この殿内義雄暗殺事件があってすぐ、近藤と芹沢の二人が中心になり、壬生浪士組初の隊規がつくられている。門限を守れとか文武の稽古を怠るなとかいった内容で、のちに土方歳三が改定したとされる隊規(一般に「局中法度」と呼ばれるが、当時新選組隊士はたんに「禁令」と呼んでいた)と違い、違反者に対し何が何でも切腹を強制するようなことがなかった点に注目しておきたい。

文久三年八月十八日、公武合体派が尊皇攘夷過激派を京都から追放した「八月十八日の政変」において、壬生浪士組はその警備活動が評価され、新しい隊名「新選組」を京都守護職の会津藩主・松平容保より賜る(朝廷から賜ったとする異説あり)。

その翌月の九月十六日(十八日説も)、新選組筆頭局長の芹沢鴨が近藤ら試衛館一派によって粛清され、新選組から水戸派が一掃されている。この芹沢鴨暗殺事件については、すでに語り尽くされているのでここでは割愛する。いずれにしろ、こののち新選組は試衛館派が牛耳ることになった。

池田屋事件の翌年、元治二年(一八六五年)二月二十三日には、近藤とは試衛館以来の盟友であった山南敬助が粛清に遭っている。

山南は土方歳三と並んで新選組副長の地位にあり、温厚な人柄で人望も厚かった。そんな山南が突然、「江戸へ行く」という置手紙を残し、隊規違反の脱走を図ったのである。

幕府の走狗と成り果てた近藤に愛想を尽かす

山南は大津まで逃げたところで、追って来た沖田総司に拘束され、そのまま京都の新選組屯所に連れ戻される。沖田は試衛館時代、山南から弟のようにかわいがられていただけに、そんな沖田に説得されたなら素直に戻ってくるに違いないとにらんだ近藤や土方の作戦勝ちだった。

帰還した山南はすぐに近藤から切腹を命じられる。新しい隊規では「脱走した者は切腹」と決められていたため、山南とて例外は許されなかったのだ。介錯は沖田が務めた。山南は隊士仲間に限らず壬生界隈の人々からの評判もよく、出棺の際は沿道にその死を悼む人々が群がったという。

山南がなぜ脱走したかだが、これも確たる理由がみつかっていない。通説では、もともと勤皇の思いが強かった山南が、京都に来てから変節した近藤に愛想を尽かしたからだと言われている。試衛館時代の近藤は、この当時の大方の武士がそうであったように尊皇攘夷を唱えていた。

ところが京都に来て新選組を旗揚げするや、近藤はただの幕府の走狗と成り果ててしまった。山南はこのことに強い不満を覚えるようになり、新選組から脱ける道を選んだのだという。

近藤の女遊びを諫言して粛清された?

山南敬助が粛清された元治二年(一八六五年)から、「鳥羽・伏見の戦い」に敗れて隊が解散に至るまでの三年間というのは、新選組の中で粛清の嵐が吹き荒れた三年間でもあった。主な被害者を挙げてみよう。

隊の経理担当で、女性関係の浪費が激しい近藤に諫言したところ、近藤ににらまれ遣い込みの罪を着せられ粛清されたという噂も立った河合耆三郎、新選組の参謀格だったが、近藤とは相容れない勤皇思想の持ち主だったため、のちに脱盟して粛清された伊東甲子太郎。

さらに、隊では甲州流軍学による調練を担当したが、やがて倒幕運動にのめり込んで脱盟し粛清された武田観柳斎、近藤とは試衛館時代からの盟友で日ごろ近藤にかわいがられていたが、伊東甲子太郎に傾倒し脱盟して粛清された藤堂平助──などの面々がこの三年間で被害に遭っていた。

最後に粛清されたのは小林桂之助という隊士で、小林は伊東甲子太郎が脱盟する際、新選組に残していった間者だった。新選組の機密を記した手紙を別の隊士に拾われ、間者であることが発覚、すぐに幹部の島田魁によって絞殺されたという。まだ二十一歳だった。

慶応三年(一八六七年)十二月十六日のことである。この約半月後に勃発した鳥羽・伏見の戦いによって、新選組自身が世の中から〝粛清〟されようとは、このときの近藤らは想像もしていなかったはずである。

「理想の武士像」を隊士に求める

壬生浪士組時代も含め新選組の活動期間は五年弱である。この五年弱で、判明しているだけで最初の殿内義雄から最後の小林桂之助まで、のべ四十人を超える隊士・元隊士が粛清に遭っていた。

冒頭で述べたように新選組は本職の取り締まり活動で二十数人の命を奪っていることを考えると、その約二倍の人数を内部粛清で殺害したことになる。もはや治安部隊と言うより粛清部隊(こんな言葉があるかどうか知らないが……)である。

新選組は最盛期には二百人を超えていたと言われている。諸国から腕に覚えがあって一癖も二癖もある男たちが集まって来ていただけに、それらを統率するには並大抵のやり方では無理だったのだろう。そこで近藤と土方は「理想の武士像」を隊士らに要求し、隊規を破れば即切腹というとんでもなく厳しい掟をつくりあげ、その掟を、隊を統率するために運用したのである。

近藤や土方がこうした思いに至った背景には、彼らが多摩地方で生まれ育った男たちだったということが少なからず関係していたはずだ。江戸期、多摩地方というのは幕府の直轄地(天領)が多く、代々の農民は旗本意識を強く持っていた。

それゆえ幕府に一朝事あるときは何をおいても将軍の御馬前に駆け付け、ひと働きして見せるという気概を持っていたのだという。近藤や土方のこうした徳川幕府に対する熱い思いの結晶が新選組だったと言えなくもないのである。