“不死”が見えてきた現代にこそ「死に方」の準備が必要だ【佐藤優】

佐藤優

医療は日進月歩で発展しているため、やがて人間は“不死”を手に入れるのではないかという見方もあります。それはかなり先のことになるとしても、私たちは死を遠ざけ、若さを維持するために様々な努力をしています。ただし、それではいざ死に直面したときにあわてたり、絶望したりしてしまいかねません。作家の佐藤優さんに、上手な終わりへの心構えと準備についてうかがいました。

豊かな人生にはリスクも必要

イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが書いた『ホモ・デウス』は、人類史、科学、思想哲学にまたがって人間の未来を総合的に論じた作品です。

人類の幸福とはなんなのか、文明の目指す先がAIに代表される「不死の知性」だとしたら、そのとき人間と神性の関係はどうなるのか―。

また、人間の肉体的なパーツはだいたい90年しかもたないが、科学技術でパーツを差し替えられるようになれば寿命は延ばせると解説しています。そして、パーツの入れ替えによる「不死」が実際に可能になると、逆に人間は死なないためにあらゆるリスクを逃れようとするのではないか、という思考実験を行っています。

たとえば車に乗ることで交通事故にあうこともあれば、旅行をすることで事件や事故に巻き込まれたりすることもある。

ところが、「不死」が前提となればそのリスクがよりクローズアップされ、リスクを避けるためになるべく外に出ようとしなくなるかもしれない。逆にいうと、人間の命は有限であると考えるからこそ人はリスクをとり、冒険や挑戦ができるというのです。

この思考実験でわかるのは、本当に有意義な生き方、幸せな人生というのは、ある程度リスクと向き合い挑戦するところにあるということ。すなわち、死を前提にするからこそ、人は豊かな人生を送ることができるのです。

私たちは、肉体と心をいつまでも若く保ちたいと望みます。しかしそれが過剰になると死をできるだけ遠ざけたいと望むようになり、リスクをとることができなくなる。結果として、本当に有意義な生き方を選択できなくなる可能性もあるのです。

「いい死に方」を考える

年齢を重ねるにつれて大きくなる老いと死の問題について、宗教的な視点から考えてみましょう。

仏教では、「生・老・病・死」というのが人間の苦しみの根源だととらえます。生を与えられたことが苦しみの始まりであり、病気や老いで不自由になるのも苦しみであると。そして、生きているうちは死という概念が不安や苦しみにつながる──。

苦しみがどこから生まれてくるかといえば、仏教でいうところの「執着」です。生に対する執着、若さに対する執着、健康でいたいという執着。恐れや苦しみが生まれるには、何かしらの原因がある。このように仏教は因果律が前提になっています。

仏教には、「善因楽果・悪因苦果」という言葉もあります。現世あるいは前世で悪いことをした結果がいまの苦しみにつながり、よいことをした結果がいまの幸せにつながっている。すべて因縁、因果があって結果があるというのです。

仏教では、生まれてくること自体が苦しみです。人間は前世の悪業によって再びこの世に生まれてくるが、その悪業を断ち、輪廻の輪から外れて涅槃に入ることが解脱であり、真の救いである。仏教ではそう教えます。

一方のキリスト教は、考え方がまったく異なります。

別の記事でもお伝えした通り、キリスト教は因果論ではありません。いいことも悪いことも因果を超越した神の意志によるものだと考えます。人知や人為ではどうすることもできない、神の定めがある。これはキリスト教のなかでも、特にプロテスタントの改革派(カルバン派)に顕著な考え方です。

ですからどんなによい行いをしている人でも、不幸のどん底に落ちることもある。先ほどの旧約聖書の「ヨブ記」はまさにそんな話です。

キリスト教では、人間はいったん死んで魂も肉体もなくなるものの、イエス・キリストが再臨したときに選ばれた人だけが復活すると教えています。輪廻もあの世もないというのがキリスト教なのです。

聖書には「一粒の麦もし落ちて死なずば一つにてあらむ」という言葉があります。麦の一粒は、地に落ちれば自分自身はなくなってしまうが、それによって新たな芽が出てたくさんの実をつける。自分が消えることが、むしろ多くのものを生み出すことになる。死を恐れないどころか、死こそが救いだとするのがキリスト教なのです。

ですからキリスト教者は、死を先に延ばそうとか、まして不死を願うということは考えません。神の定めの通りに老いて、神の定めの通りに死を迎える。それが人間として当たり前の生き方だとされているからです。

遺書で自分の死と向き合う

ある程度の年齢に達したら、誰もが一度、自分自身の死と向き合ってみるべきではないでしょうか。一番いいのは、簡単でもいいから自分で遺書を書いてみること。死んだあと、どうすれば残された人が迷わず悩まずに自分の死と向き合えるか。身のまわりの整理、お金や財産のこと、言い残しておきたいことなどを紙に書いておきましょう。

私の高校時代の旧友である豊島昭彦君は、2019年6月にすい臓がんで亡くなりました。豊島君はすい臓がんであることがわかった最初は悩んだらしいですが、結局どうすることもできない現実に気づき、残り少ない人生を精いっぱい生きることに決めたといいます。私はそれをできる限りサポートしたいと考えました。

具体的には、小説家になりたかったという彼の作品(『小説 豊国廟考―夢のまた夢―』)を世に出すお手伝いをして、あとは私と彼の学生時代のエピソードを綴ったドキュメンタリー作品を一緒につくったのです。

彼を見ていて、人間は死とどう向き合うべきかということを教えられました。どんなにアンチエイジングで若さを保っても、誰もが最後は死というゴールを迎える。

では死とどう向き合うか。遺書を書くというと、なんだかとても暗い気分になるかもしれません。しかし避けることのできない事実を見つめると、そこからいま50代である私たちが何をすべきかが見えてきます。

それは当然人それぞれでしょうが、終わり(=エンド)を考えることでいまの自分の姿も、なすべきことも明らかになる。

エンドとは「終わり」という意味のほかに「完成」という意味もある。それはキリスト教の歴史観でもありますが、自分の人生を完成させるためには、ゴールを意識しておく必要があるのかもしれません。

 

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佐藤優

PROFILE
佐藤優

1960年東京都生まれ。85年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務を経て、95年、同省国際情報局分析第一課主任分析官。2002年、背任及び偽計業務妨害容疑で逮捕。09年、背任及び偽計業務妨害の有罪確定で外務省を失職。13年、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。捜査の内幕を描いた『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)が05年に出版されると大反響を呼ぶ。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞