高杉晋作の「奇兵隊」が幕末日本にもたらしたインパクトとは?

高杉

幕末の志士、高杉晋作の最大の功績とされているのが「奇兵隊」の創設である。奇兵隊とは、武士であろうと庶民であろうと、「志」があれば身分を問わず誰でも入隊を認めるという、わが国初の混成軍隊だった。この記事では、長州藩が討幕へと突き進むきっかけとなったこの奇兵隊創設の経緯と、のちに長州藩が幕府と戦った「四境戦争」の前後で奇兵隊が果たした役割、さらに悲惨極まりないその末路までをたどってみた。

兵を用いて鬼神の如き高杉

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然(驚くさま)として敢えて正視する者なし、これ我が東行(号、雅名)高杉君に非ずや」

高杉晋作とは同じ長州藩士だった伊藤博文が、後年、「高杉晋作顕彰碑」の碑文で晋作を評した言葉である。さらに晋作唯一の弟子で、晋作に心酔しきっていた田中光顕(土佐藩の下級武士出身、明治の元勲)の場合、次のようにべたぼめである。

「兵を用いて鬼神の如き高杉、事に臨んで神出鬼没の英傑高杉、不世出の快男児高杉」

この田中光顕の評価はやや身贔屓が過ぎるようだが、そうは言っても、高杉晋作は疑いなく維新回天の立役者の一人であった。惜しくも二十九という若さで病死したが、彼がもう少し長生きしていたら、明治維新の形もかなり様変わりしていただろうと言われている。

奇兵隊は文久三年(一八六三年)六月六日、長州・下関(旧称・馬関)において、高杉晋作の発案によって結成された。ペリー提督率いる米国海軍東インド艦隊(いわゆる黒船)が浦賀沖に現れてからちょうど十年後のことである。

結成の主たる目的だが、下関を西欧列強の侵略から守るためだった。このころ長州藩では西欧列強に対し「攘夷」の気運が沸騰していた。奇兵隊結成のひと月ほど前のことだが、長州藩では下関に砲台を据え、関門海峡を通航する外国船に対し砲火を浴びせるという事件を起こしていた。

その事件とは、五月十日に米国商船を、同二十三日にはフランスの通報艦を狙ったものだった。

これに対し、外国側はむろん報復行動に出た。六月一日になって米国の軍艦が下関に現れ、貧弱な長州藩の海軍に壊滅的な打撃を与えた。つづいて五日にはフランスの軍艦が来襲し、長州藩の砲台を破壊した上、村々を焼き払うことまでやった。

フランス兵に上陸されると、長州兵は周章狼狽して逃げまどい、まったく頼りにならなかった。唯一、久坂玄瑞率いる浪士の一団「光明寺党」だけが勇敢に戦ったという。久坂は、吉田松陰門下にあっては晋作と並んで「竜虎」と称された英才だった。

藩主毛利敬親は下関が西欧列強に攻撃されたことを伝え聞いて愕然とした。そして、若いが俊英の誉れ高い晋作を召し出し、対応策を下問した。

士と農がほぼ半々で共存した組織

このとき晋作は、憂国の志ある者なら身分を問わず受け入れるという奇兵隊の創設を具申し、即座に敬親から許諾を得ている。

封建制社会、おまけに幕藩体制下にあっては前代未聞の革新的な試みだったが、すぐに噂を聞いて入隊を希望する者たちが続々と集まってきた。その身分も、藩の下級武士や浪人、郷士、農民、町人、医者、神官、僧侶、力士、侠客……など様々だった。

一体何人いたのか、時期によって異なるためはっきりしたことはわからないが、常時三百~五百人程度とみられている。明治の世となり、奇兵隊出身の宇野友治という人が諸記録を基に奇兵隊の名簿を作成しているが、そこにはのべ八百二十二人の名が載っていた。

歴史学者で下関市立大学教授などを務めた小林茂が、この名簿をもとに出身階層が明記されている隊士五百五十九人に限り、その内訳を調べている。それによると、士分(二百七十二人=四八・七パーセント)と農民(二百三十七人=四二・四パーセント)が拮抗しており、この二つの階層で九割以上を占めていた。

さらに、士分の内訳は下級武士や陪臣(又家来のこと)が大半だったが、士と農が半々で共存することに変わりはなく、繰り返しになるが、封建制社会においては極めて革新的な組織と言えた。

長州に四方向から攻め込む幕府軍十万

隊士には宿舎と給与が与えられ、蘭学兵学者・大村益次郎の指揮の下、日々厳しい訓練が重ねられた。同時期、藩の上士を中心とした正規軍も組織されたが、泰平の世に慣れきって武士の気概を忘れた彼らと比べ、奇兵隊の隊士ははるかに熱心に訓練に取り組んだという。

そのうち、京都で「八月十八日の政変」や「禁門の変」が起こったことで、長州藩は幕府との対決姿勢を鮮明にする。奇兵隊も藩の方針転換に合わせ、結成当初の目的であった攘夷から討幕への先鋒として舵を切ることになった。

その後、長州藩では幕府に恭順しようとする「俗論派」が台頭するようになり、奇兵隊に対し藩庁より解散命令が出される。これに対し、「正義派」を牛耳る晋作の行動は素早かった。奇兵隊ら長州藩の諸隊を糾合して挙兵し(「功山寺挙兵」と称す)、俗論派を一掃してまたたく間に藩の実権を握ってしまったのだ。こうして長州藩は藩を挙げて幕府と対決することとなった。

功山寺挙兵から約一年半後の慶応二年(一八六六年)六月、「第二次長州征討」(山口県では「四境戦争」と呼ぶ)が勃発。長州藩は約四千の寡勢で幕府軍十万の大軍を迎え撃つことになったが、晋作や奇兵隊らの活躍もあり、これを敢然と跳ね返すことに成功している。

勝敗を分けたのは、両軍の士気の差に加え、幕府軍の総大将である徳川家茂(十四代将軍)が戦況不利のさなかに急死したことも影響を与えたようである。

脱退して蜂起の道を選ぶ

四境戦争の敗北で大きく権威を失墜させてしまった幕府は、その翌年の慶応三年十月、もはや捲土重来の名案も浮かばないまま、大政奉還という形で政権の座から退出することになった。この間、長州藩を討幕へと向かわせた立役者である高杉晋作が、下関で肺結核の療養中に亡くなっている。慶応三年四月のことだった。

その後の奇兵隊だが、戊辰戦争でも各地を転戦し抜群の働きをみせている。とりわけ戊辰戦争中、最大の激戦と言われた「北越戦争」では隊士の中から七十人近い死者を出すほど奮戦した。そんな国を二分した内戦もようやく終息し、意気揚々と長州に凱旋した奇兵隊。薩長政権が誕生した今、故郷に帰ればこれまでの働きに見合った報酬と待遇が待っていると誰もが信じて疑わなかった。

ところが、その考えは見事に裏切られる。隊士を待ち受けていたのは厳しいリストラの嵐だった。財政難にあえぐ長州藩では、奇兵隊を含む長州諸隊約五千人のうち二千人は常備軍として雇用するが、残り三千人は何の論功行賞もなく解雇すると発表したのである。しかも、雇用されたのは士分が多かった。

こうした藩庁の冷酷な仕打ちに対し、解雇された大方の平隊士たちは納得できないと憤慨し、脱退して蜂起の道を選ぶ。彼らは明治二年(一八六九年)末から三年にかけて、武装して山口藩庁を包囲するなど鎮圧軍と戦った。

同郷の木戸孝允によって鎮圧される

鎮圧軍を指揮したのは、長州藩出身で、わずか数年前まで志士として討幕活動を展開し、今や新政府の高官の座におさまっていた木戸孝允(桂小五郎)である。たまたま帰藩していた木戸は、毛利元徳知藩事(のちに県知事に改称)から直接、反乱軍を武力鎮圧するよう要請されたのだった。

こうして、かつては一緒に幕府軍と戦った同郷の者たちが敵と味方に分かれ、周防一円で悲惨な戦闘を繰り広げることになった。結局、このときの二カ月余りの内戦で脱退兵側は六十人が死亡し、七十三人が負傷したと記録にある。鎮圧後、藩は執拗に残党狩りを行い、最終的に百三十人余を処刑した。

ときの権力者によって、いいように利用され、必要なくなれば切り捨てられる──いつの時代でも起こり得る現象だと言ってしまえばそれまでだが、この奇兵隊の場合はただただ哀れだ。

もしもこの反乱が高杉晋作の存命中の出来事であったなら、権力者側にいた彼はやはり木戸と同じように苛烈な仕打ちに出たのだろうか。