慶安の変で「由井正雪一派」が画策した大胆すぎる幕府転覆計画の全貌

由井正雪の乱で主要な役割を果たした丸橋忠弥(左)、金井半兵衛(右)を描いた浮世絵

「駿河湾の宝石」とも称されるサクラエビ漁の漁業基地として有名な静岡県由比町。江戸時代前期、由比から徳川の天下を覆そうと考えた、何とも大胆不敵な男が登場している。そう、由井(比)正雪である。正雪はなぜ幕府の転覆という過激な考えに至ったのか。正雪とその門弟がつくりあげた組織の実態と、この「慶安の変(由井正雪の乱とも)」において彼らが実行しようとしていた幕府転覆計画の全貌に迫った。

江戸の親類の菓子屋へ婿養子に入る

最初に由井正雪の略歴を述べたいが、これがなかなか難しい。なぜなら、慶安の変という謀叛事件そのものについてはある程度信頼に足る史料が残っているのだが、正雪の個人的なことに関する史料となるとほとんど現存していないからだ。

これは幕府が事件後、正雪が救国の英雄のように庶民から見られることを嫌い、残らず集めて焼却したからだと考えられている。したがって、これから述べる略歴は、いわゆる巷説をもとにしていることを最初にお断りしておく。

正雪は、慶長十年(一六〇五年)、駿河国由比で生まれた。本名は未詳。父の岡村弥右衛門は農業と紺屋(染物屋)を兼業していた。幼少期、家業を嫌った正雪は一時期寺に預けられていたこともあったらしい。寺から戻ると、近所に住んでいた浪人と知り合ったことが縁で、『太平記』など軍記物を読む楽しさに目覚める。

十八歳のとき、江戸に住む親類の菓子屋・鶴屋弥次右衛門方へ奉公に出る。その四年後、弥次右衛門が亡くなると、親類の後押しもあって正雪は鶴屋の婿に入り、店を継ぐことになった。

楠木不伝という楠木流の軍学者の塾に通うようになったのはそれから間もなくのことらしい。不伝は、南北朝時代の武将で、兵法の天才と称された楠木正成の子孫を名乗っていた。その不伝の門弟となっていよいよ軍学にのめり込む正雪。同学の士との付き合いも多くなり、鶴屋のほうはさっぱり顧みなくなった。

大名からも出張講義を依頼される

こうなると、鶴屋から離縁を申し渡されるのは時間の問題だった。店を放り出された正雪が、身の振り方を師匠の不伝に相談すると、不伝から気に入られていたこともあり、なんと不伝の娘と再婚し、不伝が所蔵していた軍学書も残らず譲り受けることになった。このころから「由井正雪」を名乗り始めたという。

その後、正雪は、自らが師匠となって指導にあたる軍学塾「張孔堂」を神田連雀町に開く。張孔堂とは前漢時代の劉邦に仕えた軍師・張良子房と、三国時代の劉備に仕えた軍師・諸葛亮孔明から一字ずつ取ったものだった。自分は中国を代表する名軍師二人を合わせたくらいの才覚の持ち主であると世間にアピールしたかったのだろう。

塾はすぐに大繁盛し、最盛期には三千人の門弟を擁したという。話半分としても、その活況ぶりがうかがえる。大半は箔を付けて再仕官にありつこうとする浪人だったが、なかには諸大名とその家臣、旗本らも名を連ねていた。紀州藩主の徳川頼宣や備前藩主の池田光政から慇懃なる招きを受け、藩邸で講義することもあった。

特に池田光政は正雪を気に入り、五千石という破格の好条件で召し抱えようとしたが、正雪は「それでは不足」と断ったという逸話がある。この話の真偽は不明だが、自分を大きく見せる演出法にも相当長けた人物であったことは間違いなかろう。

廃絶政策によって政情不安が募る

正雪が幕府転覆計画を思いついたのはいつごろかわからないが、日々、大勢の浪人たちと接するうちに、彼らの身の上に同情を覚え、幕政に対する不満を募らせていったことは想像に難くない。

さらに、諸大名や旗本たちから「師匠、師匠」と祭り上げられたことで己を過信してしまい、「無能な幕閣よりも、政治のかじ取りはおれのほうがうまくやれるはず」と勝手に思い込んでしまったのではないだろうか。

いずれにしろ、正雪に謀叛を起こさせるきっかけとなったのは、主に外様大名に的を絞った幕府の廃絶政策にあったことは間違いない。ある史家の推計では、慶長五年(一六〇〇年)の「関ヶ原の戦い」から、三代将軍・徳川家光の最晩年期までの五十年間に、最低でも二十四万人、最大で約四十万人が禄を失っているという。

このうち何割が再仕官ができたかは不明だが、膨大な数の人々が失業したことに変わりはない。しかも、それぞれが家族や奉公人を抱えていたわけで、そうした人たちも含めると、この五十年間で数十万、あるいは百万を超える人々が突如として路頭に迷うことになってしまったのである。

この当時、こうした幕政への不満を抱えた人々によって、いつどこで何らかの暴発が起こっても不思議ではなかったのだ。

天皇と将軍の両方を監視下に置く

慶安四年(一六五一年)四月二十日、三代将軍家光が亡くなり、まだ十一歳の家綱が四代将軍となった。これを好機ととらえた正雪は、さっそく行動に出た。丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義ら幹部連中を集め、転覆計画があることを告げると、またたく間に五千人もの賛同者が集まった。

正雪は、同志を集めるのに、徳川頼宣の印判が捺された偽の書付を見せ、自分には徳川御三家の紀伊大納言が後ろ盾になっていると言って信じ込ませたという。

正雪が考えた転覆計画とは次のようなものだった。まず丸橋忠弥が江戸城の焔硝蔵(火薬庫)に侵入し、城を焼き払う。同時に江戸の各所に火を放ち、市中を混乱に陥れる。江戸城が襲撃されたことを知って駆け付けた幕閣や旗本らを鉄砲で撃退し、その隙に将軍家綱を城から連れ出す。

家康が眠る駿河の久能山にまで家綱を連れて行き、そこを本拠地として幕府軍を迎え撃つ。さらに京都に向かった一隊が天皇を誘拐し、天皇と将軍の両方を監視下に置くことで政治の実権を一気に握ってしまおうという、実に大胆不敵な計画だった。

ところが、直前に幕府の知るところとなり、正雪らの計画は未遂に終わってしまう。仲間に加わっていた奥村某という者の密告がすべての始まりだった。

江戸城の火薬庫の番人までが反乱軍に加わる

まず、正雪にとっては片腕とも恃む丸橋忠弥が、居宅にいたところを妻子と共に捕縛された。同年七月二十三日のことだ。丸橋という人は宝蔵院流槍術の達人で、正雪は日ごろ、冷静沈着な彼を頼りにし、今回の計画では江戸城に侵入して将軍を拉致するという最も重要な役割を任せていた。

のちに丸橋は厳しい取り調べを受けた後、八月十日、妻子や三十数人の同志と共に品川の鈴ヶ森で磔刑に処されている。

また、正雪の門弟のなかでは丸橋忠弥に次ぐ地位にあった金井半兵衛は大坂担当で、市中に火を放ち、混乱に乗じて大坂城を占拠する役割だった。ところが、実行に移る前に計画が幕府に知られたため、いったん地下に潜ったものの、八月十三日になり、もはや逃れられないと観念し、自害して果てた。

興味深いのは、このたびの反乱軍に江戸城の焔硝蔵で働く役人が加わっていたことだ。正雪はこの焔硝蔵から奪った火薬を幕府軍との戦いで活用しようと考えていた。寡勢の反乱軍にとっては何より優先される武器だった。

極論を言えば、この役人が仲間に加わっていなければ、正雪はこのたびの転覆計画を思いつくことはなかったとまで言われている。

それにしても、幕府の役人の中にまで正雪の仲間に加わる者がいたことは、当時、幕政に対し不満を持つ者がいかに多かったかの証でもあろう。

正雪の遺言書に書かれてあった内容とは

一方、首魁の正雪のその後だが、彼は丸橋忠弥が捕縛される前日の七月二十二日に江戸を出発しており、三日後の二十五日に駿府に到着したときはまだ幕府に計画が漏れていることは知らなかった。

翌二十六日早朝、宿泊していた茶屋町の梅屋太郎右衛門方を駿府町奉行所の捕り方にぐるりと包囲され、そこで正雪は初めて計画が露見したことに気付いたのであった。

正雪は最初、「自分は紀伊大納言殿の身内の者である」と主張し、その場を切り抜けようとした。ところが捕り方から「問答無用」と冷たく言い返されたため、ここに至り、さすがの正雪も観念し、部屋に籠って自害したのだった。享年四十七。

正雪は亡くなる直前に遺言書をしたためていた。そこには、「自分は将軍に取って代わろうなどと大それた野心は持っていなかった。あくまでも今の政治の元凶になっている幕閣を排除することが目的だった」と述べたあと、「紀伊大納言殿のお名前を利用したことは申し訳なかった。大納言殿は今回の計画に一切かかわっていない」といった意味のことも記されてあったという。

こうして、由井正雪とその門弟による幕府転覆計画は未遂に終わったが、この事件から一年後の慶安五年九月、越前国大野藩出身の浪人で、正雪同様、江戸で軍学を講じていた別木(戸次とも書く)庄左衛門という者が同志数人と共に幕府老中を襲撃しようとした事件(承応の変)を起こしている。

どちらの事件も未遂に終わったとはいえ、幕府の屋台骨を揺るがす大事件が、幕政に不満を持つ浪人たちによって立て続けに引き起こされたことで、幕府は諸大名の廃絶政策を見直し、浪人対策にも本腰を入れざるを得なくなった。

早い話が、それまでの武断政治から脱却して、法律や学問によって世を治める文治政治への移行であった。こうした幕府側の方針転換によってその後、浪人が激減して世の中の安定を招くことになるのだから、正雪の無謀とも思える幕府転覆計画はけっして無駄ではなかったのである。